戊辰戦争動画(第5弾・宇都宮進攻)の紹介
戊辰戦争動画(第5弾・宇都宮進攻)をご紹介します。
本動画の冒頭で、宇都宮藩主・戸田忠友が大津で謹慎を言い渡されますが、忠友は慶応4年2月19日(1868年3月12日)に徳川慶喜擁護のために京都に向けて江戸を出発していました。
本動画シリーズでは、第4弾*1の冒頭部分、会津藩主・松平容保が朝敵の宣告を受けて江戸から会津に向かった慶応4年2月16日(1868年3月9日)の3日後です。
このように、宇都宮藩は藩主不在の日々が続き、実質、主導権が宇都宮藩中老・県信輯に移ったため、藩内を新政府に与するよう意見を統一させました。
新政府側となった宇都宮藩は、慶応4年3月29日(1868年4月21日)に安塚村(現・栃木県壬生町)で世直し一揆が発生し、さらに、翌々日には会津藩砲兵隊が今市(現・栃木県日光市)付近まで進軍してきたため、新政府軍に救援要請をします。
会津藩砲兵隊は慶応4年3月15日(1868年4月7日)に若松(現・福島県会津若松市)を発ち、南方面に向かいました。そして、慶応4年3月21日(1868年4月13日)に隊頭を山川浩から、白虎隊中二番隊隊長として有名な日向内記に交代し、さらに南に向かい、今市まで達しました。
山川浩は、西南戦争時は山田顕義率いる別働第2旅団の参謀として熊本城攻囲戦で一足早く城内に入城したり、人吉攻防戦で戦果をあげたりした人物です。この辺りの詳細は、西南戦争動画シリーズ*2をご視聴ください。
慶応4年4月2日(1868年4月24日)には、県の救援を受けて香川敬三率いる東山道軍が粕壁(現・埼玉県春日部市)まで進軍しました。このときの軍編成は以下の通りです。
組織 | 隊長 | |||
大軍監 | 香川敬三 | |||
内参謀 | 祖式金八郎 | |||
軍監 | 平川和太郎 | |||
斥候 | 有馬藤太 | 上田楠次 | 南部静太郎 | |
諸隊 | 彦根藩兵三個小隊 | 小泉弥一右衛門 | 渡辺九朗左衛門 | 青木貞兵衛 |
須坂藩兵一個小隊 | 小林要右衛門 | |||
岩村田藩兵一個中隊相当 | 井上良蔵 | |||
旧幕一個半小隊 | 岡田善長 | |||
舘林藩兵一個小隊※ | 関口喜兵衛 | |||
※後に小金井宿で合流 |
この辺りは、第4弾の最後の方で紹介しています。
慶応4年4月4日(1868年4月26日)には真岡(現・栃木県真岡市)でも世直し一揆が発生し、東山道軍の祖式金八郎が結城城進軍後、関口喜兵衛を鎮圧に向かわせます。
このように戊辰戦争時は、新政府軍と旧幕軍の衝突だけでなく外国勢力の干渉や農民達の反乱等も発生しており、いかに日本国内が混沌としていたかが分かります。
次回は、宇都宮城が舞台となる第6弾についてご紹介します。第5弾の宇都宮進攻時には連戦連勝であった大鳥軍ですが、遂に薩摩藩の歴戦部隊や名将・河田景与率いる山国隊と激突します。
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