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近代戦争~山水の間に高蹈長嘯せんのみ~

製作した近代戦争動画の補足説明を中心に、使用したソフトやその他思いついたことを記事にしています。

西南戦争動画(第9弾・日向北走から和田越の戦いまで)の紹介

昨日アップした西南戦争動画(第9弾・日向北走から和田越の戦いまで)を紹介します。

 

 


西南戦争(09・日向北走から和田越の戦いまで) / Satsuma Rebellion

 

 

都城を撤退して宮崎に陣を構える*1薩軍は、大淀川の対岸まで進軍してきた官軍に対し、大雨で増水している大淀川をまさか渡河しないだろうと油断していました。

しかし、官軍は増水した大淀川を渡河して宮崎に突入します。

完全に虚を衝かれた薩軍は、然したる抵抗も出来ずに宮崎を撤退し、北走します。

日向の地形は単純で、東が海、西は九州山地が広がっており、河川は西から東にほぼ平行に流れています。

特に宮崎平野北端(都農付近)までは、低~中位段丘面であるのに対し、それより北方は平野部が無くなり、山地が終わってすぐ海になる狭隘地形へと変化します。

わざわざこのようなところに移動する*2ことから、かなり追い詰められていたことは明白です。

ただ、延岡~熊田には、挙兵前から豊後進出を進言していた野村忍介率いる奇兵隊が戦線を維持しており、取り敢えずは合流し、そこから次の手を考えようとしていたのでしょう。

そのような状況に、党薩諸隊のなかで最も規模が大きく、勢いのあった熊本隊は、隊長の池辺吉十郎や一番小隊長の佐々友房の存在でまだ戦うことができてはいましたが、内心ではもはや何の為に戦っているのか分からないといった気持ちがあったと思います。

そして、官軍が高鍋に突入した後、大淀川支川・綾北川で官軍に包囲された熊本隊は、池辺が行方不明となり*3、佐々友房が戦傷を負い、遂に大潰乱します。

池辺は、人吉攻防戦が行われている*45月4日に、旧藩主・細川護久太政官に頼まれて老臣大矢野源水と国友半右衛門を派遣し、密かに離脱するよう諭されていた。

しかし、池辺は泣いて旧藩主の好意を謝しましたが、ことここに至って途中で脱落することは義が許さないとし、鄭重に断ったといいます。

旧肥後熊本藩主 細川護久

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この後熊本隊は、山崎定平を新首領に迎えます。

北走する薩軍は、樫の木を細かく砕いて銃口に詰めるほど弾薬に乏しかったり、また食糧も四日間苺と草木の葉だけを食べたりなど、悲惨な状況であったといいます。

美々津で両軍が衝突しているとき(8月6日)、西郷は、諸将に対して直筆で書状を書き送りました。

 

「各隊尽力の故を以て、既に半歳の戦争に及び候。

 勝算目前に相見え候折柄、遂に兵気相衰へ、急迫余地なきに至り候儀は、遺憾の至りに候。

 尤も兵の多寡強弱に於ては差違無之、一歩たりとも進んで斃れ尽し、後世に醜辱を残さざる様、御示教可被給候也。

  八月六日 西郷吉之助 各隊長御中」

 

(開戦してから半年が経ち、勝利は目前にあり、敵味方の兵力に差はない。)

現実からあまりに逸脱している内容で、西郷が本当にそう考えていたのか、嘘でも士気を上げようとしていたのかは不明です。

これより翌々日、奇兵隊指揮長の野村忍介は、飫肥隊首領の小倉処平*5達に本戦争に対して絶望感漂う書状を書き送っています。

そうこうしているうちに、官軍は延岡まで急追し、薩軍は延岡北方に流れる北川の谷底低地に封じ込まれます。

このとき、野村は、見送りに来た延岡区長塚本長民に対し、鄭重に礼を言い、「延岡の地形は南北に川あり、これに拠って一戦すれば十分一時の急を救うに足る要害であるが、今まで延岡の士民があれほど薩軍に好意を示してくれたのにここを焦土するに忍びない。」と言って、塚本をひどく感動させたという話が残っています。

薩軍諸将は、先に笹首に宿陣している西郷を訪ね、今後どうするか軍議を行いました。結果、和田越まで南下して官軍と戦うと決まりました。

和田越は、延岡北東、北川河口付近に位置する最標高点92m、峠(鞍部)は39mしかない丘陵地です。

南方には、北川・祝子川・五ヶ瀬川によって形成された三角州や堆積低地(平野)が広がり、和田越の尾根部から官軍の動きがよく分かる地形となっています。

軍議が一決した際、これまで軍議で一言も発さなかった西郷が初めて発言します。

「あすは、一隊を率いて行き申そ。」

西郷は、そろそろ頃合かと考え、和田越を死に場所にしようとしていたのでしょう。

当然、諸将は猛反対しましたが、西郷は反対を押し切って和田越に赴きます。

対する官軍も、実質トップである山縣有朋が、樫山の小山(おそらく貫通丘陵*6)に出張本営を置き、全軍を指揮します。

こうして、両軍トップが初めて相見える『和田越の戦い』が始まりました。

和田越の南麓には現在も湖沼が残っており、おそらく和田越を環流丘陵*7とする北川の旧河川が流れていた(小梓峠が頸状部)と考えられ、樫山の貫通丘陵や三角州状の平野部からも、この辺一帯は湿地帯と考えられます。

そのため、別働第2旅団は泥濘に阻まれてなかなか進めず、これを見た薩軍総指揮・桐野利秋は、急遽決死精鋭一隊(約50名)を組織して急襲します。

1個旅団が僅か50名によって危機に陥るため、戦場においていかに地形が重要であるかがよく分かります。

 

和田越付近の地形

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しかし、第4旅団左翼が別働第2旅団の危機を察知し、救援したため、さすがに圧倒的兵数の前に桐野は、退却を余儀なくされます。

その後、一進一退の攻防が続きますが、別働第2旅団が小梓峠の熊本隊を圧迫し、遂に突破します。

そこから次々と薩軍は敗れ、昼過ぎには総退却することとなりました。

午前8時から始まった決戦は、僅か数時間で幕を閉じました。

戦いの際、野村が兵を励ますために叫んでいた内容の通り、北川河口は当然、北川上流(熊田北方)は別働第1旅団・熊本鎮台が、西方(可愛岳西麓)は第1旅団がおさえており、薩軍は北川の谷に閉じ込められ、まさに袋の鼠状態となってしまいました。

このような状況に、さすがの薩軍も、遂に解散令を発することとなります。

次回動画(2月頃にアップ予定)は、この薩軍解散から始まりますので、是非ご期待ください。

 

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*1:西南戦争(08・都城の戦いから宮崎への撤退まで) / Satsuma Rebellion by RingRipple 歴史/動画 - ニコニコ動画参照

*2:というより、逃げ場が北方向しかなかった。

*3:池辺は、罹病で衰えきったまま県下の民家に潜伏し、転々と所在を変えていましたが、戦後、官軍に捕らえられ、長崎で裁判を受けて刑殺されます。

*4:西南戦争(06・人吉攻防戦) / Satsuma Rebellion by RingRipple 歴史/動画 - ニコニコ動画参照

*5:次回動画で紹介できると思いますが、小倉も非情な最期を遂げることになります。

*6:支川が流路を変えて本流との合流部が変わることで取り残された丘陵

*7:河川が流路を変えたことで取り残された丘陵

西南戦争動画(第8弾・都城の戦いから宮崎への撤退まで)の紹介

先週にアップした西南戦争動画(第8弾・都城の戦いから宮崎への撤退まで)を紹介します。

 

 


西南戦争(08・都城の戦いから宮崎への撤退まで) / Satsuma Rebellion

 

 

人吉攻防戦での官軍(別働第2旅団)の動きは、わざと西郷隆盛を逃そうとしているのではないかと思えるほど鈍かったわけですが*1、7月に入ってからは非常に活発になります。

都城西方は、姶良火砕流によるシラス台地で構成される高隈山地があります。シラス台地なので決して起伏に富んでいるわけではありませんが、自然の防衛網として活用できます。

しかし、逆に都城自体は低位段丘面上に位置しているので、台地上から薩軍の動きは丸わかりだったんじゃないかなーと個人的に思います。ただ、中央部で大淀川が南北に流れていますので、もし攻められても足止めに使うという利点もありました*2

それでも圧倒的な戦力差によって都城西側の防衛戦はことごとく破られ、最終防衛戦である庄内・財部・末吉も突破され、次々と官軍(第3・4旅団、別働第1・3旅団)が都城に侵攻し、遂に都城出張本営を指揮していた村田新八は、撤退を決断します。

桐野利秋も評価する薩人のなかで猛将と云われた貴島清や、桐野利秋の従兄弟で別府晋介の兄である別府九郎が山之口・三股でそれぞれ殿を務め、村田は宮崎にて活路を見出そうと薩軍本営のある地へと向かいます。

人吉攻防戦から敗色濃厚となっていたわけですが、都城撤退の時点で、ほぼ戦局の逆転は絶望的となってしまいました。桐野自身も、都城戦前後の軍議の内容から、故郷で散ろうと決意していたことが窺えます*3

ちなみに、都城に侵攻した7月24日、陸軍トップである山縣有朋都城に入っています。人吉攻防戦時の5月26日に長州首領の木戸孝允を喪った*4山縣は、長州を背負う者として、ただ単に戦争に勝つのではなく、今後不穏分子が出ない戦争の始末の付け方を考えていたのではないでしょうか*5

 

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*1:西南戦争(06・人吉攻防戦) / Satsuma Rebellion by RingRipple 歴史/動画 - ニコニコ動画参照。

*2:宮崎では同じような河川の天然防衛によって薩軍は油断したわけですが・・詳細は次回動画で。

*3:こういったところからも西南戦争は「桐野の私戦」と揶揄されるのが分かります。

*4:西南戦争動画第6弾の終盤あたり。

*5:伊藤博文は、長州閥や薩摩閥といった派閥に全く興味を示さなかったそうです。

西南戦争動画(第7弾・大口の戦いから日向への敗走まで)の紹介

先週にアップした西南戦争動画第7弾(大口の戦いから日向への敗走まで)について紹介します。

 

 


西南戦争(07・大口の戦いから日向への敗走まで) / Satsuma Rebellion

 

 

人吉攻防戦に決着がつき、村田新八率いる薩軍は人吉(熊本県)から南下して加久藤越(現宮崎県えびの市)方面に撤退します。

一方で、人吉より南西方面に位置する大口(現鹿児島県伊佐市)では、辺見十郎太率いる雷撃隊が官軍3旅団(第2旅団・別働第2・3旅団)と激戦を繰り広げています。

当初、大口での戦いは雷撃隊vs川路利良率いる別働第3旅団で兵数も同等であったため、戦闘指揮に特段優れている辺見側が優勢でしたが、増援された第2・3旅団により、劣勢に変わります(※動画第6弾参照)。

そして人吉陥落後、別働第2旅団も加わり、雷撃隊だけでなく熊本隊も奮戦しますが、遂には大口の撤退を余儀なくされます。

このとき辺見は、田原坂吉次峠の戦いで散っていった多くの私学校徒(兵児)がいれば・・・と陥落した高熊山を仰ぎながら嘆き、老松の傍らで泣いたと云われています。その老松は「十郎太の涙松」と呼ばれ、明治42~3年頃の落雷で枯死し、現在はないそうです。

人吉・大口が陥落し、村田は次の手として都城を基点に各隊を配置し、官軍を迎え撃つ作戦を立てました。都城は動画にもあるように、霧島山地や鰐塚山地に囲まれ、大淀川の侵食によって形成された広大な都城盆地にあります。

背後の宮崎には西郷隆盛桐野利秋率いる薩軍本営が設置されており、官軍の進軍を阻止する最期の砦といえ、地形的にも守備に適した場所です。

 

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スタンドアロンPCでのGoogleEarthPro(最新バージョン)の使い方

動画制作に使用しているソフトの備忘録を書こうと意気込んでブログを開設しましたが、ようやく記事を書こうと思い立ちました。

(元々面倒くさがりでSNSはおろかプライベートなLINEやメールさえ続かない・・。)

 

 

といっても、動画制作には全く関係ないスタンドアロンPC(ネットワークに繋がっていないPC)でのGoogleEarthの使い方について、キャッシュの保存も含めて記録しておくといったものです。

 

仕事で、スタンドアロンPCでGoogleEarthProを(しかも高解像度の衛星画像を利用して)使用する必要があり、ネットで色々調べたところ、旧バージョン?の方法は2記事くらい出てきましたが、現バージョンでの方法がなかったため、試行錯誤して独自に方法を構築した、という感じです。

 

ちなみに、GoogleEarthProは、現時点では無料でダウンロードが可能です。

  

  • 1.概要
  • 2.キャッシュデータの取得
  •  自動的に衛星画像キャッシュを取得する方法
  • 3.キャッシュデータのバックアップ
  • 4.オフラインでのGoogleEarthの操作
  • 5.バックアップキャッシュデータの適用

 

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ペリリューの戦い動画の紹介

今回は、「ペリリューの戦い」動画を紹介します。

前半・後半の二部作です。

 

 


ペリリューの戦い(前半) / Battle of Peleliu

 

 


ペリリューの戦い(後半) / Battle of Peleliu

 

 

2006年に公開された「父親達の星条旗」「硫黄島からの手紙」で一気に有名となった硫黄島戦ですが、その前哨戦であるペリリュー島での戦いです。

ペリリューの戦い」と聞くと、本営が『玉砕』を許さず、徹底抗戦を強要した”狂気の戦場”(某NHKでそう謳っていましたが)というイメージが強いかと思います。

たしかに、日米ともに多くの方々が死に、戦後も多くの米兵の方々が心的ショックを受けており、「二度と同じ戦争を起こしてはいけない」という教訓題材として重要な戦いと認識しています。

しかし、それだけでは、日本から遠く離れた孤島で、「国」のため「次の世代」のためと文字通り必死に戦った日本守備隊の想いを無下にしている気がしてなりません。

この戦いにおける日本守備隊と現地民の美談まで主張しようとは思いませんが(そもそも事実か微妙で実際には現地民で犠牲になった方々もおられる)、米軍の予定を大きく狂わせ、恐怖させた先人達がいたことに誇りを持ち、現代抱えている問題も先人達に恥じない行動をとりたいと考えるくらいはしたいものです。

 

ちなみに、前半を公開した日は終戦日、後半を公開した日はペリリューの戦い開戦日(正確には米軍上陸日)です。

 

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