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近代戦争~山水の間に高蹈長嘯せんのみ~

製作した近代戦争動画の補足説明を中心に、使用したソフトやその他思いついたことを記事にしています。

西南戦争動画(第10弾・薩軍解散・可愛岳突破から帰薩まで)の紹介

先週アップした西南戦争動画(第10弾・薩軍解散・可愛岳突破から帰薩まで)を紹介します。

 


西南戦争(10・薩軍解散・可愛岳突破から帰薩まで) / Satsuma Rebellion

 

 

和田越の戦いに敗れて、俵野・長井に閉じ込められた薩軍は、遂に「薩軍解散」令を発します。

 

我軍の窮迫、此処に至る。今日の事、唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯、其欲する所に任せよ。

 

こうして数多くの党薩諸隊が政府軍に投降、あるいは自決するなか、かつて宮崎八郎が指揮していた熊本協同隊も、主幹である崎村常雄が投降を決意します。

崎村の文明思想は、薩摩士族(特に桐野や辺見、篠原、別府も?)の思想と真逆と思うところもあれば、似ている部分もあり、非常に興味深いです。

翌日、薩摩の次によく戦った熊本隊も、隊長の池辺吉十郎や佐々友房を失ったこともあり*1、遂に組織として降伏します。

熊本隊は、高熊山の戦い*2で辺見に「気でも狂ったか。」という意味のことを言わせる程、圧倒的兵力で向かってくる政府軍に対し、勇敢に戦いました。

そして西郷達は、近くに砲弾が落ちるなか、今後の方針を話し合い、結局は眼前の可愛岳を突破するという方針を決めました。

動画を見ていただくと分かると思いますが、可愛岳は”山”というより”絶壁”ですね。 

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支尾根はおそらく官軍(第2旅団)に押さえられていたと考えると、西郷達は絶壁をよじ登るようにして進んだのでしょう。

先発隊の辺見・河野が頂上近くの鞍部・中の越に到達した時間は、午前4時半頃です。

俵野の登り口を出発した時間が午後10時頃でしたので、僅か6~7kmを登るために6時間半もかかっており、いかに困難な道を進んだのかがよく分かります。

そして中の越の北側にある屋敷野という小台地に野営していた官軍第1・2旅団を発見した辺見・河野は、襲撃を決し、見事成功します。

官軍側からすれば、まさか自軍営に薩軍が現れると思ってもみなかったでしょうから、混乱して退却するのも無理ありません。

その後、西郷達は三田井まで進み、そこで西郷は鹿児島に帰る決断を下します。

三田井から鹿児島までの道のりは、かつての椎葉越え*3よりもキツく困難な道のりではないでしょうか。

一行が鹿児島に向かう途中、坂本という山里の専光寺に泊まったときの、桐野のお茶目なエピソードが残っています。

桐野は光物が大好きで、西郷が付けていた金時計は、桐野が喉から手が出る程欲しがっていたそうです。しかし、もらう訳にもいかないので、せめて一目だけ見たいという思いから、西郷に「いま、何時ごわす。」と聞いては見ていたそうです。このときも同じ様に聞くと、西郷は踏破中に失くしたと答えました。桐野はびっくりして部下に探させますと慌てて言うと、時計に執着がなかった西郷は笑いながら、拾った者に譲ると言い、すぐさま桐野は探しに出ようとしました。すると、既に拾った者が届けにきたので、その者の所有物となり、桐野はしつこく「売ってくれ。」と懇願し、遂に300円という大金でその金時計を買い取ったそうです。

このような話を聞くと、必ずしも当時の西郷達は悲観的でなく、颯爽としていたことが窺えます。

そして、可愛岳を突破して約2週間、ようやく西郷達は故郷・鹿児島に帰ってきました。

2月15日、60年振りの大雪の中出発した日から数えると、約半年かけて戻ってきたことになります。

城山を制した西郷達は、遂に西南戦争最後の戦いをむかえます。

 

次回の第11弾は、西南戦争動画シリーズの最終回となります。是非ご期待ください。

 

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