西南戦争動画(第8弾・都城の戦いから宮崎への撤退まで)の紹介
先週にアップした西南戦争動画(第8弾・都城の戦いから宮崎への撤退まで)を紹介します。
西南戦争(08・都城の戦いから宮崎への撤退まで) / Satsuma Rebellion
人吉攻防戦での官軍(別働第2旅団)の動きは、わざと西郷隆盛を逃そうとしているのではないかと思えるほど鈍かったわけですが*1、7月に入ってからは非常に活発になります。
都城西方は、姶良火砕流によるシラス台地で構成される高隈山地があります。シラス台地なので決して起伏に富んでいるわけではありませんが、自然の防衛網として活用できます。
しかし、逆に都城自体は低位段丘面上に位置しているので、台地上から薩軍の動きは丸わかりだったんじゃないかなーと個人的に思います。ただ、中央部で大淀川が南北に流れていますので、もし攻められても足止めに使うという利点もありました*2。
それでも圧倒的な戦力差によって都城西側の防衛戦はことごとく破られ、最終防衛戦である庄内・財部・末吉も突破され、次々と官軍(第3・4旅団、別働第1・3旅団)が都城に侵攻し、遂に都城出張本営を指揮していた村田新八は、撤退を決断します。
桐野利秋も評価する薩人のなかで猛将と云われた貴島清や、桐野利秋の従兄弟で別府晋介の兄である別府九郎が山之口・三股でそれぞれ殿を務め、村田は宮崎にて活路を見出そうと薩軍本営のある地へと向かいます。
人吉攻防戦から敗色濃厚となっていたわけですが、都城撤退の時点で、ほぼ戦局の逆転は絶望的となってしまいました。桐野自身も、都城戦前後の軍議の内容から、故郷で散ろうと決意していたことが窺えます*3。
ちなみに、都城に侵攻した7月24日、陸軍トップである山縣有朋が都城に入っています。人吉攻防戦時の5月26日に長州首領の木戸孝允を喪った*4山縣は、長州を背負う者として、ただ単に戦争に勝つのではなく、今後不穏分子が出ない戦争の始末の付け方を考えていたのではないでしょうか*5。
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