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近代戦争~山水の間に高蹈長嘯せんのみ~

製作した近代戦争動画の補足説明を中心に、使用したソフトやその他思いついたことを記事にしています。

西南戦争年表

西南戦争動画の制作にあたり、下記記事より収集した情報と基に整理した年表を紹介します(といっても人様に見せられるレベルまでの整理はしていませんが・・・)。

 

 

ripple-reprise-1969.hatenablog.com

  

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 ※田原坂の戦い終了以降(西南戦争動画第3弾以降)です。

NO 天気 場所 官軍 薩軍 内容 備考
1 3 12 熊本城 段山をめぐる官軍と薩軍の争奪戦発生 後に「段山の屁軍(へいくさ)」と呼ばれた。
2 3 13 熊本城 鎮台兵が薩軍を敗走させる 官軍死傷者221名、薩軍死者73名捕虜4名で長囲戦最大の激戦
3 3 14 長崎 高島鞆之助・黒田清隆 別働第2旅団(後に第1旅団)と参軍が長崎に上陸  
4 3 18 天草 高島鞆之助・黒田清隆 別働第2旅団と参軍が長崎を出発して天草に上陸  
5 3 19 早朝 日奈久 高島鞆之助 別働第2旅団が天草を出発して日奈久に上陸  
6 3 19 早朝 日奈久 高島鞆之助 別働第2旅団が日奈久兵300名と交戦  
7 3 19 午後2時 八代 高島鞆之助 別働第2旅団が八代を占領  
8 3 19 二本木 桐野利秋 薩軍本営が、官軍の日奈久上陸の報を受ける  
9 3 19 二本木 宮崎八郎 宮崎が桐野からの命を受け、鹿児島に戻った別府・辺見・淵辺への伝言のため出発  
10 3 19 二本木 永山弥一郎・高城七之丞 永山が八代に向けて1300名で出発  
11 3 20 午前5時 松橋・砂川・氷川 高島鞆之助・黒田清隆 永山弥一郎・高城七之丞 永山隊の先発部隊600名が松橋に到着し、さらに南下して砂川を渡河し、氷川で別働第2旅団と対峙  
12 3 20 山鹿 野村忍介 官軍の日奈久上陸の報を受け、野村は貴島清隊と飫肥隊を日奈久に向けて派遣  
13 3 20 午前7時 植木 貴島清 貴島らが薩軍敗兵から田原坂陥落を聞く  
14 3 20 山鹿 野村忍介 田原坂陥落の報を受け、山鹿の兵を植木に派遣  
15 3 20 日奈久 黒田清隆 1個大隊半と警視隊500余名が日奈久に上陸  
16 3 20 氷川 高島鞆之助・黒田清隆 永山弥一郎・高城七之丞 別働第2旅団と薩軍先遣隊が交戦  
17 3 21 未明 植木 野村忍介 野村含む全山鹿隊が植木に南下し、山鹿を撤退  
18 3 21 午前7時 砂川 高島鞆之助・黒田清隆 永山弥一郎・高城七之丞 官軍と薩軍の射撃戦開始  
19 3 21 砂川 高島鞆之助・黒田清隆 永山弥一郎・高城七之丞 薩軍が砂川に退却  
20 3 22 宮の原 黒田清隆 参軍が八代から宮の原に出て薩軍と交戦  
21 3 23 植木・木留 官軍と薩軍が交戦  
22 3 24 木留 官軍と薩軍が交戦  
23 3 24 長崎 山田顕義川路利良 別働第2旅団と別働第3旅団が長崎を出発  
24 3 25 植木・木留 官軍は植木に柵塁を設けて木留を主攻撃  
25 3 25 午後 八代 山田顕義川路利良 別働第2旅団と別働第3旅団が八代に上陸  
26 3 25 午後 八代 黒田清隆 黒田は別働第2旅団を別働第1旅団に改称  
27 3 26 快晴 熊本城 大迫尚敏 威力偵察に出撃するが薩軍の逆襲に遭い、撤退  
28 3 26 快晴 小川 黒田清隆 永山弥一郎 別働第1旅団を左翼、別働第2旅団を中央、警視隊を右翼に配して三方から薩軍を攻撃 全4500名程度
29 3 26 快晴 加治木浜 別府晋介・辺見十郎太・淵辺群平 補充軍1500名を引き連れて人吉盆地に向けて出発  
30 3 27 横川 別府晋介・辺見十郎太・淵辺群平 補充軍1500名が横川に到着  
31 3 28 吉田 別府晋介・辺見十郎太・淵辺群平 補充軍1500名が吉田に到着  
32 3 29 薄暮 人吉盆地 別府晋介・辺見十郎太・淵辺群平 補充軍1500名が人吉盆地に到着  

33

3 30 三ノ岳 官軍は三ノ岳の熊本隊を攻撃  
34 3 30 明け方 隈府 近衛鎮台2隊が二手に分かれて薩軍を攻撃  
35 3 30 隈府 伊東隊の応援もあり薩軍が官軍を敗退させる  
36 3 30 娑婆神嶺 黒田清隆 別働第3旅団が攻撃し、占領  
37 3 30 松橋 黒田清隆 別働第1旅団・別働第2旅団が攻撃し、大野川の線まで前進  
38 3 30 松橋 山田顕義 人吉の薩軍球磨川を下って衝こうとする報を受け、山田が三個中隊(600名)を八代に派遣  
39 3 31 松橋 永山弥一郎・河野四郎左衛門 永山は負傷したため二本木の野戦病院に収容され、総指揮を河野に委ねる  
40 3 31 松橋 黒田清隆 別働第2旅団・別働第3旅団は山背と本道の両面から、別働第1旅団は北豊崎から御船に進んで薩軍右側を攻撃し、松橋を占領 薩軍は川尻まで後退
41 3 31 夕刻 人吉 宮崎八郎別府晋介 宮崎が人吉に到着し、桐野の命を別府らに伝える  
42 4 1 半高山・吉次峠 官軍が半高山・吉次峠を占領  
43 4 1 宇土 別働第1旅団が薩軍夜襲隊を追撃して宇土を占領  
44 4 1 堅志田 別働第3旅団が甲佐に退却した薩軍を追撃して堅志田を占領  
45 4 2 木留 官軍が木留を占領  
46 4 2 辺田野 薩軍が辺田野に後退  
47 4 2 人吉 別府晋介・辺見十郎太・淵辺群平・宮崎八郎 八代に向けて人吉を出発し、球磨川の急流を下り、中流の神瀬で泊まる  
48 4 3 早朝 堅志田 霧に乗じた薩軍の急襲を別働第3旅団が迎え撃ち、5時間後、薩軍が退却  
49 4 3 甲佐 官軍が追撃して緑川を越えて薩軍の側背を衝き、進んで甲佐を占領  
50 4 3 御船 薩軍が悉く御船に退却  
51 4 3 瀬戸石・鎌瀬 別府晋介・辺見十郎太・淵辺群平・宮崎八郎 鎌瀬で辺見・別府・宮崎隊が球磨川東岸の山路を、それ以外が川沿いの二道に分かれて進軍  
52 4 4 坂本村 辺見十郎太・宮崎八郎 辺見・宮崎隊約1000名が山中の官軍を撃破し、坂本村の別働第2旅団1個中隊を敗走させた後に宿営 「辺見どんがいれば、戦は勝ちじゃ。」
53 4 4 宇土 黒田清隆・川村純義 黒田が宇土に到着した後、高瀬の官軍本営から海路やってきた川村と密談 山縣に3000名の増援を要求したことから、西郷が脱出する機会を与えたと考えられる
54 4 5 球磨川 別府晋介・辺見十郎太・宮崎八郎 辺見・別府・宮崎隊約1000名が官軍を撃破し、八代市街地手前の古田・妙見山・宮地の丘陵地で夜営  
55 4 5 木留 官軍が軍議を開く  
56 4 5 鳥巣 三浦梧楼 平野隊・神宮司 第3旅団が薩軍を撃退  
57 4 5 八代 別働第2旅団2個中隊の増援により官軍が1000余名となる  
58 4 6 植木 野村忍介 野村が鳥巣方面に向かう  
59 4 6 宇土戸口浦 黒川通軌 別働第4旅団約2600名が上陸 歩兵二個大隊・遊撃一個大隊・砲六門
60 4 6 八代南郊の
麦島・萩原堤
辺見十郎太・宮崎八郎 薩軍球磨川沿いから八代市街に突入しようとしたが、北方の宮原の増援部隊二個中隊400名が宮地の辺見隊の側背を横撃し、猫谷に撤退していた官軍100名も辺見隊右翼背後を攻撃  
61 4 6 夕方 八代 辺見十郎太・宮崎八郎 辺見隊が萩原堤を渡河して撤退し、別府隊と合流後、人吉方面に後退 宮崎八郎戦死・別府晋介が足に負傷
62 4 7 古閑 平野隊・重久隊 薩軍の抵抗により官軍が撤退  
63 4 7 緑川 別働第2旅団が別働第1旅団・別働第4旅団の援軍を得て、緑川左岸の薩軍を右岸に押し返す  
64 4 7 木原山 第2旅団・第4旅団が木原山急襲の薩軍を挟撃して川尻まで敗走させる  
65 4 8 午前4時 熊本城 奥保鞏・大迫尚敏 奥の突囲隊・小川の侵襲隊・予備隊が出撃 弾薬各自百五十発・混和水・リント(包帯)
66 4 8 木原山 黒田清隆・伊東祐麿・黒川通軌・山川浩 宇土本営の黒田・伊東・黒川が、山川がいる木原山北麓の砲兵陣地を視察  
67 4 8 宇土 奥保鞏 侵襲隊が安巳橋を急襲している間に突囲隊が水前寺・中牟田・健軍・隈庄を経て木原山北西麓の平原に駆け込み、その後宇土の衝背軍と連絡  
68 4 8 辺田野 官軍と薩軍が交戦  
69 4 8 荻迫 官軍が荻迫の柿木台場を占領  
70 4 9 隈府 薩軍は隈府に攻め入った官軍を撃退  
71 4 9 竹迫・赤星坂 第3旅団 桐野利秋 薩軍の桐野隊は弾薬・武器不足により隈府から竹迫・赤星坂に撤退 小天~三ノ岳~辺田野~立福寺~向坂~鳥巣~竹迫の防衛線は健在
72 4 10 鳥巣 官軍が鳥巣の再攻略を開始  
73 4 10 宇土 黒田清隆 軍議をひらき、黒田は14日に川尻を占領し、15日に木原山の上に烽火をあげてそれを合図に各旅団が所定の道路を使って熊本に進軍することとした。 熊本ではなく川尻としたことは、やはり黒田は西郷を逃がすことを考えていた?
74 4 11 宇土 黒田清隆 攻撃準備(緑川沿いを七里=約49km) 杉島大渡と小岩瀬を山川浩一個大隊、左翼の下流新川水越を別働第2旅団(山田)・別働第4旅団(黒川)、隈庄から進んで中央の御船を別働第1旅団(高島)と突囲部隊(奥)、右翼の上流甲佐から進んで右翼の御船を第3旅団(川路)が攻撃準備
75 4 12 午前5時 晴天 宇土 黒田清隆 四個旅団7000名を布陣後、川尻奪還に向けて総攻撃開始 緑川の鹿児島街道沿いの対岸の薩軍兵站基地が攻撃目標
76 4 12 晴天 植木・木留・熊本 薩軍の反撃  
77 4 12 晴天 緑川 永山弥一郎 御船~緑川~河口を永山隊2500名が布陣 療養していた永山が御船に入る
78 4 12 午前9時 晴天 緑川 永山弥一郎 各地で薩軍と官軍が激突し、西南戦争始まって以来の会戦形態が現出 永山は酒樽をさかさにして据え、フロック・コト姿であぐらをかき、刀の鞘をはらって刀身をひざの前に置き、報告に駆けてくる者を樽の上から叱咤した。
「今日はみな死ね」
永山は、戊辰戦争で東北列強との戦いで、弾が飛び交う戦場で部下とともに酒樽をあけたという豪快な逸話が残っている。
79 4 12 午前10時 晴天 緑川(御船川) 別働第1旅団 永山弥一郎・税所左一郎 別働第1旅団が宮地を発して緑川を渡る
薩軍の前線が全て崩壊
永山は幕僚を本営に戻し、小さな百姓家を譲ってもらい、火をかけて自刃した。また、税所左一郎輜司令も家のかたわらで自刃した。
80 4 12 緑川 別働第2・4旅団 別働第2旅団が新川堤で薩軍の猛射に阻まれ、第4旅団も進撃を阻止される  
81 4 12 宇土 黒田清隆 黒田のもとに死傷数が報告される 将校の死傷六、下士卒は百七十六
82 4 13 早暁 緑川(隈庄) 山川浩 隈庄村から北上した緑川の南岸から、川に舟橋をかけて大隊千名で渡り、加勢川の洲の草の中に兵を伏せ、旅団司令部の命令を待つ 山川は、恩人である谷を早く助けたいと考えている。
83 4 13 加勢川 山川浩 加勢川北岸の薩兵が山川隊に気付き、射撃を開始。山川隊は射撃せず我慢した。  
84 4 13 加勢川 山川浩 山川は山田の意向を聞くべく派遣した高木盛之輔から山田がすでに川尻に入ったと聞き、10日軍議での命令を無視して熊本に躍進 高木は、山田を見つけられず、しかし川尻方面での銃声が盛んであったため、左記の報告を行った。
「薩摩人みよや東の丈夫が 提げ佩く太刀の利きか鈍きか」
85 4 13 午後3時~夜 熊本城 山川浩・田部正壮・小川又次・谷干城児玉源太郎 山川は熊本城まで進軍し、山川隊の田部と篭城軍の小川が旧知であり、山川と田部で入城し、谷と会ったが、山川隊は城外の田迎で夜営 山川は、山田からの軍令違反からの遠慮で、城内に泊まらなかったが、谷に命じられた児玉からしつこく城に入れと説得された。
86 4 13 川尻 山田顕義山川浩 山田は川尻本営に山川を呼び出し、軍令違反について激しく面罵した。 この件により、山川は戦後の論功行賞において最下位であった。
87 4 13 二本木 西郷隆盛桐野利秋・池辺吉十郎 軍議が開かれ、池辺の建議により、本営の木山方面への撤退が決定 西郷が玉砕を主張するが、桐野はじめ他諸将が反対
88 4 13 鳥巣 野村忍介 武器が尽きて薩軍が大津に向けて撤退  
89 4 14 午前2時 細雨 二本木 西郷隆盛村田新八・池上四郎 西郷をのせた駕籠が木山(熊本から東に10km)に向けて村田・池上とともに出発 世安橋から春竹村へ出て、木山街道を東に目指した
90 4 14 午前9時過ぎ 川尻 別働第2・4旅団 川尻をほぼ官軍が占領  
91 4 14 午前9時過ぎ 隈庄・鯰 別働第2旅団 隈庄から鯰付近まで官軍が北上  
92 4 14 大多尾 河東祐五郎 薩軍北方戦線に川尻方面が崩れ、熊本城の囲いが解けた報が伝わる 西郷が木山に撤退までは伝わらず、薩軍の間に臆病風が吹き荒れるのはこの頃からである。
熊本協同隊が堡塁の陣屋に火を放って離脱
93 4 15 熊本城 衝背軍 別働第2・4旅団が熊本城に一斉入城、続いて別働第1、別働第3旅団も入城 熊本城解放
94 4 15 早朝 植木・木留・熊本 薩軍防衛線各地で攻撃の太鼓が打ち鳴らされ、一帯は黒煙に包まれた。 この隙に薩軍は撤退した。
95 4 15 午前11時頃 植木・木留・熊本 「惣軍引揚げ」の命令を受け、薩軍が植木・木留・熊本から城南方面まで撤退。 植木街道に薩軍が殺到した。
96 4 15 熊本城 第1・2旅団・第3旅団
乃木希典
薩軍撤退を確認した第1・2旅団が熊本に進軍し、先遣の大島大佐隊が熊本城下に入り、熊本城北側の京町台から近付いた。
菊池(隈府)から攻めていた第3旅団も、薩軍撤退を知り、石川・鳥の栖・大池の3隊に分けて、警戒しながら熊本城下に入った。
負傷していた乃木希典も復帰し、第1旅団の参謀のような仕事をしていた。
97 4 15 正午頃 植木街道 河野主一郎 河野は、諸隊長との軍議で、殿軍をつとめることとした。 このときの軍議で、河野は永山に代わり、三番大隊長となる。
98 4 15 木山 西郷隆盛桐野利秋・野村忍介・池辺四郎? 野村・池辺の説得で桐野が決断し、矢部郷浜町(現・矢部町:木山より25km東南方面)に移動 桐野は木山を死所に決戦する気でいた。
99 4 16?17? 木山 河野主一郎・貴島清 河野は木山に到着したが、西郷の姿はなく、貴島のみ残っていた。 西郷が矢部郷浜町に移動したことが伝えられていなかった。
100 4 16?17? 木山 河野主一郎・貴島清・長崎金兵衛 偵察に追ってきた官軍の小部隊を挟み撃ちしようとするが、逆行した貴島隊をみて薩軍が混乱して逃げ出す。河野が畑に大あぐらをかくも、全員逃げた。しかし、後続の長崎が兵5・6名率いたため、彼らに追い散らさせた。 薩軍二千名に対し、官軍偵察隊は十名余であった。
101 4 16?17? 木山 河野主一郎・高城七之丞 殿軍最後尾の高城が官軍小部隊と銃戦 「汝と一緒に矢部へゆこう」「俺はまだ飯食わんで、河原で食う。汝はさきに行っ居れ」
102 4 16 大津・健軍・保田窪 三方面で薩軍が官軍に勝利  
103 4 17 木山 桐野利秋 桐野らは、本営木山を中心に、右翼:大津(野村)・長嶺(貴島・6個中隊)・保田窪(中島5個中隊・福島隊)・健軍(河野5個中隊・延岡隊)、左翼:御船(坂元20個中隊計1300名)にわたる20km余りの防衛線を築く 計約8000名
104 4 17 熊本城 山縣有朋 山縣らは熊本城で軍議を行い、片川瀬(第3旅団)、竹迫(第1旅団)、松雲院町(第2旅団)、立田山(別働第5旅団)、熊本城東部(熊本鎮台)、熊本城(第4旅団)、川尻(別働第1旅団)、隈庄(別働第2旅団)、堅志田(別働第3旅団)、八代(別働第4旅団)に部署した 計約30000名
105 4 17 御船 別働第3旅団 坂元仲平 薩軍最左翼である坂元が、熊本に入った官軍と入れ替わる形で御船に進駐したため、別働第3旅団は熊本から引き返して攻撃した。坂元隊はこの攻撃を退けた。 20個中隊(約1300名)
106 4 17 八代 球磨川~八代で小戦闘を繰り返してきた薩軍が、人吉に引き上げた。  
107 4 18 京都 木戸孝允 木戸は、東京の岩倉に建白して「残兵を討滅せよ」と激しく言い、京都の大久保らにも人を遣わせて説きに説いた。 太政官が京都に移ったため、同じく京都に止宿している木戸は、多年の宿痾(結核)が重くなっているにもかかわらず、この戦争を気にして大久保に激しく何度も建白している。
108 4 19 黎明 大津 第1・2・3旅団 野村忍介 官軍の旅団が連携して大津街道に進撃したが、野村の諸隊が奮戦してこれを防いだ。 城東会戦開始(関ヶ原の戦い以来最大の野戦)
慢性的な銃弾不足に陥っていた薩軍は、鍋釜などを鋳つぶして弾を作りつつ戦ったが、本戦末期には官軍が射った弾を土をほじって拾っては鋳つぶして作り直していた。
しかし、官軍が遮蔽物に頭を引っ込めて銃だけ出して撃つのに対し、薩軍は「薩摩の立射」と戊辰戦争の頃から呼ばれる身を乗り出して撃つため、射撃戦では官軍を上回っていた。
109 4 19 健軍 熊本鎮台・別働第1・2・5旅団 延岡隊・河野主一郎 官軍が延岡隊を攻め、延岡隊は京塚を守って健闘したが弾薬尽きて後退し、代わって河野の中隊が逆襲し、官軍を撃破した。
さらに官軍は、別働第1旅団の援軍を得たが、薩軍優位に終わった。
5個中隊
110 4 19 御船 別働第1・2・3旅団 坂元仲平 別働第1・2・3旅団の西・南・東からの包囲攻撃に堪えきれず、敗退した。 20個中隊(約1300名)
敗走した薩軍は、御船川・若宮渕に行く手を阻まれ、逃げ惑う薩軍を官軍が狙撃し、川が血の色に染まったといわれている。
111 4 20 午前3時 大津 大津の野村部隊が退却  
112 4 20 保田窪 別働第5旅団 中島健彦・福島隊 中島隊が別働第5旅団右翼を攻撃。
別働第5旅団主力が攻め、午後3時には猛烈な火力を集中して薩軍の先陣を突破して後陣に迫ったが、中島隊の逆襲によって官軍左翼部隊が総崩れとなり、腹背に攻撃を受け、包囲を脱して後退した。
 
113 4 20 長嶺 別働第5旅団 貴島清・中島健 貴島隊も中島隊と連携して別働第5旅団の左翼を急襲し、突破して熊本城に突入する勢いをみせた。官軍は、急ぎ熊本城の予備隊・第4旅団を投入した。 別働第5旅団と熊本鎮台の連絡は夜になっても絶たれたままであった。
114 4 20 木山 西郷隆盛桐野利秋・野村忍介・池辺四郎? 右翼では薩軍優勢であったが、最右翼の大津と最左翼の御船から官軍が挟撃してきたため、野村・池辺の説得で桐野が決断し、矢部郷浜町(現・矢部町:木山より25km東南方面)に移動 野村は阿蘇から豊後口を固めて再起を桐野に進言した。
桐野は木山を死所に決戦する気でいた。
115 4 20 大津・保田窪・健軍 貴島清・中島健彦・河野主一郎・延岡隊 薩軍本営の撤退を受けて、大津・保田窪・健軍方面の薩軍各隊も後退した。 城東会戦終了
官軍の死傷者700名(田原坂の戦いを上回る)
116 4 21 早朝 大津・木山 第1・2・3旅団 第1・2旅団は大津に進軍後、薩軍を追撃して戸嶋・道明・小谷から木山に進出。
第3旅団は大津を本営とした。
 
117 4 21 矢部郷浜 薩軍は軍議を開き、総指揮を桐野利秋村田新八・池上四郎を大隊指揮長から本営附きとし、全軍を中隊編成とし、人吉を根拠地に薩摩・大隅・日向を盤踞とする策とした。 中隊編成でこれまでの番号名称から名称が変更された。
118 4 22 熊本城 乃木希典・富重利平 22日付けで中佐に昇任し、熊本鎮台の「幕僚参謀」に補せられた。
乃木は、写真家の富重を連れて熊本市街の戦場跡写真を撮らせた。
 
119 4 22 灰塚 山縣有朋 熊本東郊の灰塚で各旅団司令長官を会同し、今後について話し合った。  
120 4 22 小雨 矢部郷浜 西郷隆盛村田新八・池上四郎 西郷率いる二千余の軍が人吉に向けて矢部郷浜を出発  
121 4 22 沢津 西郷隆盛村田新八・池上四郎 矢部郷浜町から清和村尾野尻を経て、東南にさがって沢津という山村で一泊した。  
122 4 23 矢部郷浜 桐野利秋・河野主一郎 桐野率いる残り全ての軍が人吉に向けて矢部郷浜を出発  
123 4 23 鞍岡 西郷隆盛村田新八・池上四郎 沢津の目の前(東方)の黒峰(標高1283m)を越えて12km程進んだ鞍岡という寒村で一泊した。 西郷は金光寺に泊まった。
124 4 23 鹿児島 川村純義・高島鞆之助・田辺良顕 川村を総司令官として別働第1旅団・別働第3旅団2個大隊を主力とする陸海軍混成軍が鹿児島に向かった。  
125 4 24 灰塚 山縣有朋 一昨日と同様に各旅団司令長官と会同し、恐薩病に陥っていた各-は、持重する方針に決めた。 山縣は後に、灰塚で決めた方針は間違いだったかもしれないと述懐している。
126 4 24~26 鞍岡~人吉 西郷隆盛村田新八・池上四郎 西郷軍は鞍岡を南下し、胡摩山を越え、日向椎葉山の鹿野遊という山頂の村を過ぎ、桑弓野村に出て、渓谷(今日の上椎葉ダム)を通り、人吉盆地東方の山道を降って球磨川上流沿いをつたった。  
127 4 25 鞍岡 桐野利秋・河野主一郎 桐野軍が鞍岡に一泊した。 桐野も金光寺に泊まり、住持から「なにか、ひと筆」とせがむと、桐野は「中村半次郎」と書いた。
128 4 26 京都 島津久光三条実美 太政官の廟議によって、三条は子の島津珍彦・忠欽を召見して島津久光を帰郷させた。 久光は、薩軍の熊本城囲いが解けた頃、太政官に対し、「休戦せよ」と申し入れていた。
129 4 27 江代 西郷隆盛村田新八・池上四郎 西郷は早田松寿の屋敷に泊まった。 早田松寿の屋敷とその周辺は、現在ダムの底に沈んでいる。
130 4 27 鹿児島 川村純義・高島鞆之助・田辺良顕・曾我祐準・大山巌 川村達は鹿児島に上陸し、本営を設け、政府に増援を求めた結果、新たに第4旅団と別働第5旅団1個大隊が派遣された。  
131 4 28 人吉 西郷隆盛村田新八・池上四郎 薩軍は人吉に到着し、永国寺を本営とした。 人吉は、北は椎葉(日向)、五木(肥後)の山に囲まれ、南は白髪岳、国見岳、陀来水岳などに封じられて、薩摩への道は加久藤越と久七峠の切所だけが通じている。
永国寺は薩軍(別府・辺見・淵辺)の病院になっており、足を負傷した別府がここで臥せている。
132 4 28 江代 桐野利秋・河野主一郎 桐野が人吉城下の三十数km北東にある江代に到着し、ここを出張本営として軍議を開き、人吉を中心に南北に両翼を張る形で薩軍諸隊を配置した。 桐野は、西郷・村田・池上抜きで軍議を行った。
133 4 28 江代・人吉 河野主一郎・西郷隆盛 河野は薩軍本営に呼ばれ、1日かけて向かった。河野は、人吉~八代の球磨川沿いの防衛を任されていたが、西郷から別府の隊を率いるように命ぜられ、それに従い、また添役の隊長は自由に決めていいと言われ、高城を選んだ。
高城は、江代での軍議で北方の山路を進んで馬見原口を守ることになっていたが、本営案に変わった。
 
134 4 30 人吉 川村純義 別府晋介 別府晋介の指示の元、横川に出張本営を置き、桂久武兵站監、中島健彦(監軍・貴島清)の振武隊、相良五左衛門の行進隊、奇兵隊3個中隊の約4,500名を編成して鹿児島方面に派遣した。 27日に官軍の川村純義が鹿児島県庁など主要機関の施設を占領したため。
135 4 30 江代 野村忍介 江代を出発し、椎葉の山-を抜け、延岡を拠点とした。 兵力は2,420名(薩軍飫肥隊)
豊後:8個中隊・飫肥
宮崎:1個中隊
美津:2個中隊
細島:3個中隊
延岡:3個中隊
136 4 30 中村
頭治
常山隊3番中隊
遊撃隊6番小隊
常山隊3番中隊は中村、遊撃隊6番小隊春田吉次は頭治などそれぞれ要地を守備  
137 5 1 球磨盆地 山田顕義 官軍が各配置に向け進軍 人吉攻防戦開始
五家荘道:甲佐→五家荘→椎葉→不士野峠→江代
五木越道:小川→五家荘→五木→川辺川→人吉
種山道:八代→中村→仰烏帽子山→人吉
万江越道:八代→肥後峠→万江川
照岳道:八代→球磨川→国見峠→小川→人吉
球磨川道:八代・日奈久→球磨川北岸→人吉
佐敷→球磨川南岸
138 5 1 鹿児島 川村純義 川村は鹿児島県令心得の仁礼大佐に命じて警視隊に鹿児島の警察業務を代行させ、市街の巡視・薩軍関係者宅捜索を実施した。  
139 5 1 山田郷 中島健 中島達前線部隊は、山田郷から鹿児島に突入することとした。  
140 5 3 栗野・横川 第4旅団 行進隊・振武隊・加治木士族隊 栗野・横川に進軍した行進隊・振武隊は、加治木士族隊も加えて鹿児島攻撃を準備した。
一方、官軍本営は第4旅団を増援として鹿児島に向かわせた。
 
141 5 3 宮藤 中村重遠 宮藤の戦い勃発  
142 5 3 鹿児島 岩村通俊 西郷隆盛 岩村通俊が新しい鹿児島県令に赴任し、西郷に告諭書を送った。  
143 5 4 奥日向 池上四郎 奥日向に進出 約1,000名
144 5 4 水俣・山野 別働第3旅団 別働第3旅団は、大口攻略のため3個中隊を水俣から先発させ、大口の北西にある山野まで進軍した。  
145 5 4 鹿児島 行進隊・振武隊・加治木士族隊 行進隊・振武隊・加治木士族隊は、鹿児島近郊に到着し、草牟田・武村・吉野などで突撃の期をうかがう。  
146 5 5 田ノ浦 官軍が上陸  
147 5 5 才木村 鵬翼隊4・6番中隊 薩軍は田ノ浦から人吉に通じる才木村に見張りを置き、大野口を守備した  
148 5 5 大口 別働第3旅団 雷撃隊 雷撃隊が官軍を撃退すべく部隊を展開 新たに崎村常雄を隊長に迎えた熊本協同隊も大口に向かって進撃した。
宮崎滔天「皆、望みなきの戦場に立つて晩節を全ふせん事を希へり。」
149 5 5 城山 行進隊・振武隊・加治木士族隊 行進隊・振武隊・加治木士族隊(10個中隊)は、山田から鹿児島に突入し、城山占領を目指したが失敗した。 6月24日まで続いた。
150 5 6 大口(牛尾川) 別働第3旅団 雷撃隊 牛尾川付近で交戦するが、雷撃隊は敗れ、別働第3旅団は大口に迫った。  
151 5 6 才木村 鵬翼隊4番中隊 官軍が薩軍4番中隊を攻撃したが、薩軍がこれに迎え撃ち、一旦は佐敷に退却させた  
152 5 6 鹿児島 振武隊 振武隊は甲突川始め鹿児島市街周辺で官軍と戦いを繰り広げたが大敗し、伊敷まで後退した。 各郷から新兵を募集し、新振武隊15中隊を編成した。
また、上町商人からなる振武附属隊も作られた。
153 5 7 宮藤 中村重遠 中村中佐の活躍で薩軍敗走(宮藤の戦い終了)  
154 5 8 久木野 雷撃隊・正義隊・干城隊・熊本隊・熊本協同隊 辺見は大塚付近に進み、久木野本道に大挙して攻撃を加え、官軍を撃退した。
官軍は市渡瀬まで後退した。
 
155 5 8 神瀬 別働第3旅団・別働第4旅団 辺見・河野・平野・淵辺 雷撃隊・破竹隊・常山隊・鵬翼隊を率いて神瀬箙瀬方面に向かう  
156 5 9 神瀬 別働第3旅団・別働第4旅団 辺見・河野・平野・淵辺 官軍と衝突  
157 5 9 山野 別働第3旅団 辺見十郎太 辺見は自ら隊を率いて官軍と交戦し、撃退した。  
158 5 9 材木村 鵬翼隊6番中隊・淵辺・干城隊8番中隊左半隊 官軍が再び薩軍6番中隊を攻撃し、激戦が繰り広げられたが、薩軍が長園村に退却した。 このとき、淵辺が本営から干城隊8番中隊左半隊を応援に寄越したため、官軍を挟み撃ちし、塁を取り戻した
159 5 9 材木村 鵬翼隊3番中隊 一ノ瀬にいた薩軍が官軍の襲来に苦戦しつつも材木村まで達し、材木村の薩軍とともに塁の奪還に成功した  
160 5 9 湯ノ浦 別働第3旅団 鵬翼隊2・5番中隊・干城隊4番中隊・その他諸隊 佐敷方面湯ノ浦の官軍を攻めたが失敗し、大野に退却した  
161 5 10 三田井 高城七之丞 三田井を占領し、部隊を配備。
以後、鏡山などの官軍を牽制。
 
162 5 10 延岡 奇兵隊・池上四郎 延岡に入り、奇兵隊の後援を努めた。
武器弾薬の製造・物資調達・募兵を進め、各地に斥候を派遣し、情報を丹念に収拾した。
豊後・日向に各隊配置を進めた。
 
163 5 10 豊後 奇兵隊 豊後に8個中隊約1,800名が攻撃開始。
まず先発4中隊が延岡を出発。
 
164 5 10 鹿児島 振武隊 鹿児島県内で募兵した15個中隊を加え、谷山から紫原にかけて配置し、華倉の戦い、武村・吉野・武の岡などで官軍と戦った。  
165 5 10 平瀬 中村重遠 平瀬の戦い勃発  
166 5 11 久木野 別働第3旅団 雷撃隊 肥薩国境を越え、水俣に迫る勢いで進軍し、大関山~久木野に布陣した。 官軍が退却の際に放棄した多くの武器弾薬を接収した。
167 5 11 佐敷 別働第2旅団・別働第3旅団 雷撃隊・鵬翼隊 連携して佐敷を攻撃した。
雷撃隊傘下の熊本隊(池辺吉十郎・約1,500名)も肥薩国境を越えて矢筈岳・鬼岳に展開して出水・水俣に攻め込む動きを見せた。
淵辺率いる鵬翼隊は6個中隊(約600名)
168 5 11 催馬楽 海軍軍艦龍驤 催馬楽山の薩軍と海軍軍艦龍驤との間で大規模な砲撃戦が行われた。 13日まで
169 5 12 球磨盆地 別道第2旅団 甲佐・小川・八代から別道第2旅団主力部隊が人吉を目指して五家荘道・五木越道・種山道・万江越道・照岳道を南下開始。 薩軍球磨川道・佐敷道に重点を置き、それら以上に険しい峠・渓谷がある北部5街道の南下をあまり想定していなかったため、防衛戦は弱かった。
170 5 12 佐敷 別働第2旅団 鵬翼隊 鵬翼隊が敗退して守勢になる。  
171 5 12 久木野 別働第3旅団 雷撃隊 官軍と対等に交戦 雷撃隊は後に第二の田原坂と云われる奮戦を見せた。
172 5 12 鹿児島 行進隊・振武隊・加治木士族隊 官軍は各隊の連携を強化し、守りを固めて薩軍を撃退した。 鹿児島市街では薩軍に協力する士族の抵抗が激しく、鎮圧のために官軍は家屋を放火。市街地が広範囲にわたって焼失した。
173 5 13 佐敷・水俣 第3旅団・第2旅団 官軍は、佐敷に第3旅団を、水俣に第2旅団の増援を決定し、投入した。 官軍は当初、別働第3旅団の3個大隊程度で大口攻略は可能とみていたが、薩軍の予想以上の動きをみて増援を決定した。
174 5 13 竹田 奇兵隊 竹田に侵入して警察・裁判所を破壊し、占領。
さらに、竹田士族に報国隊(約600名)を結成させる。
 
175 5 13 宮園 五木越道・宮園陥落  
176 5 14 竹田 奇兵隊 後続4個中隊も竹田に到着し、大分突撃隊を選抜。  
177 5 14 平瀬 中村重遠 中村中佐の活躍で薩軍敗走(平瀬の戦い終了)  
178 5 15 箙瀬 赤塚源太郎
河野主一郎
破竹隊の赤塚以下1個中隊(薩摩蒲生郷の士族)が官軍に降る。
これを受け、永国寺で起居していた河野は、前線の各隊を督励してまわり、「二心ある者は降っても構わん。そいどん(しかし)降れば俺の持場にかかれ。打ち散らけっくる。」と怒鳴った。
79名(軍夫を合わせると104名)
彼らは山田顕義の許可を得て、官軍の編成の中(岡本大尉附属)に入った。
179 5 15 豊後 別働第1旅団・熊本鎮台・第1旅団 伊東直二 薩軍の豊後侵入を知った官軍本営は、鹿児島を制した別働第1旅団から1個大隊を軍艦で投入した。
また、熊本からも熊本鎮台・第1旅団を竹田攻撃へ向けた。
 
180 5 15 宮崎 桐野利秋 桐野は村田新八に人吉を任せ、人吉以後の展開のために宮崎に向かう。 ここから人吉は、防衛から時間稼ぎの場へと変わっていった。
181 5 16 大分・鶴崎 警視隊 大分突撃隊 先行隊15名が大分に突入したが、警備が厚く転進し、東に位置する鶴崎で上陸中の警視隊を発見して斬り込んだ。
予期せぬ攻撃に警視隊は多くの死傷者を出したが、薩軍の少なさを見抜くと反撃し、先行隊隊長の鎌田雄一が負傷するなどして退却した。
 
182 5 16 竹の川 五木越道・竹の川陥落  
183 5 16 一ノ瀬 鵬翼隊5番中隊・干城隊3番中隊 官軍が一ノ瀬にいた薩軍を攻撃し、薩軍は苦戦したが、大野からきた干城隊3番中隊の参戦により官軍を退けた  
184 5 19 頭地 五木越道・頭地陥落  
185 5 19 水無・大河内 別働第2旅団(山田) 常山隊7番中隊 別働第2旅団は、人吉に通じる諸道のひとつ、万江越道の要衝「水無・大河内」の薩軍常山隊7番中隊を攻撃、薩軍は鹿沢村まで退いた  
186 5 20 久木野 別働第3旅団 淵辺・干城隊3・4・8番中隊 官軍が久木野に進軍したため、大野本営にいた淵辺が干城隊に命令して襲撃させ、官軍を退却させた この戦いは薩軍の圧勝となり、銃器や弾薬、その他の物品を多く得た
187 5 21 水無・大河内 別働第2旅団(山田) 常山隊7番中隊 薩軍は官軍に反撃したが、勝敗を決することができず、再び鹿沢村に引き上げた  
188 5 21 横野 中村重遠 中村中佐は、横野方面の薩軍を襲撃し、岩野村に敗走させた。  
189 5 22 湯ノ浦 淵辺・干城隊3・4番中隊・鵬翼隊6番中隊・その他2隊 淵辺は佐敷口の湯ノ浦に進撃することを決め、干城隊3・4番中隊・鵬翼隊6番中隊・その他2隊に進軍を命じた  
190 5 22 人吉・久木野 辺見・淵辺・干城隊8番中隊 本営にいた辺見は、久木野に進撃することを決意し、淵辺に応援を要求し、淵辺は干城隊8番中隊を久木野に寄越した  
191 5 22 久木野 干城隊8番中隊・干城隊3・4番中隊 8番中隊が、たまたま大野口から湯ノ浦に進撃していた3・4番中隊と合流し、官軍を退けた  
192 5 22 箙瀬 球磨川道・箙瀬陥落  
193 5 22 岩野村 中村重遠 干城隊2番中隊 尾八重を守っていた干城隊2番中隊が岩野村を守備し、全面の官軍を襲撃して敗走させた。 さらに追撃しようとしたが弾薬が不足していたこともあり、米良の西八重に退却した。
194 5 22 重富・加治木 川村純義・第4旅団・別働第3旅団・別働第1旅団・海軍軍艦龍驤 川村は、第4旅団1個大隊半・別働第3旅団2個中隊を右翼、別働第1旅団2個大隊半を左翼として軍艦4隻と小舟に分乗させ、艦砲で援護しながら重富に上陸させて薩軍の後方を攻撃させた。
また、軍艦龍驤を加治木沖に回航して薩軍の増援を阻止させた。
左右翼隊の健闘で薩軍重富から撃退され、次いで磯付近で包囲攻撃を受け、北方に敗走した。
こうして官軍は重富を占領した。
 
195 5 22 屋敷野 薩軍約100名が官軍の到来とともに降伏した。 彼らは官軍の編成の中に入った。
196 5 23 大野 別働第3旅団 鵬翼対5番中隊左小隊・干城隊2番中隊・干城隊8番中隊 官軍が倉谷・高平・大野方面の薩軍を次-と破り、大野に進軍し、鵬翼対5番中隊左小隊・干城隊2番中隊は防戦したが、敗れて石河内に退却した 久木野にいた干城隊8番中隊も参戦しようとしたが、大野の塁は官軍に奪われてしまった。
197 5 23 一ノ瀬 鵬翼隊3番中隊・鵬翼隊2番中隊 官軍が薩軍の塁に襲来。3番中隊は大野口の敗報を聞き、左小隊を鎌瀬・右小隊を植柘に分けて退き、その後神ノ瀬方面も敗れたと聞き、舞床に退いた 鵬翼隊2番中隊は岩棚より程角道三方堺に退却
198 5 23 矢原岳 熊本隊 五木越道・八原岳陥落(熊本隊撤退)  
199 5 23 雀宮・桂山 中島・貴島・相良 中島・貴島・相良は、行進隊8個中隊と奇兵隊2個中隊で雀宮・桂山を襲撃し、多数の銃器・弾薬を獲得した。  
200 5 23 大野 別働第3旅団 淵辺 淵辺は、塁を奪還するために夜襲を命令したが、官軍の反撃で退却した  
201 5 24 武村 別働第1旅団 薩軍に包囲されて市街の一画を占領している状態の別働第1旅団は、武村を攻撃したが敗退した。  
202 5 24 涙橋 別働第1旅団・別働第3旅団 別働第1・3旅団は、涙橋付近で薩軍と交戦する一方、軍艦に分乗した兵が背後を衝き、薩軍を敗走させた。
薩軍は反撃に出て、壮烈な白兵戦が展開されたが、夕方、暴風雨になり、これに乗じた官軍の猛攻に弾薬乏しくなり、耐えきれず吉野に退却した。
紫原方面の戦闘は、鹿児島方面で行われた最大の激戦で、官軍211名、薩軍66名の死傷者を出した。
203 5 25 佐伯 奇兵隊 佐伯に攻撃するも、失敗。  
204 5 25 神瀬 球磨川道・神瀬陥落  
205 5 25 烏帽子岳 種山道・仰烏帽子岳陥落  
206 5 25 矢筈岳 矢筈岳陥落  
207 5 25 下田街道 第4旅団 別府隊・振武隊 第4旅団は下田街道を南下し、坂元・催馬楽・桂山から別府隊・振武隊10番中隊の背後を攻撃し、吉野に追い落とした。  
208 5 26 未明 矢筈岳 佐-友房・深野一三 佐-・深野率いる約60名の攻撃隊が矢筈岳の官軍を急襲したが、官軍の銃撃の前に後退し、熊本隊はやむなく大口へと後退した。  
209 5 26 鳥越道・桂山 第4旅団 別府隊・振武隊 第4旅団が鳥越道と桂山の二方から前進攻撃したところ、薩軍は抵抗することなく川上地方に退却した。  
210 5 28 明け方 舞床 鵬翼隊3番中隊 官軍が薩軍を襲ったが、薩軍は防戦に成功  
211 5 28 鹿沢村 別働第2旅団(山田) 常山隊7番中隊 官軍が鹿沢村まで行き薩軍を攻撃、薩軍は必死に防戦したが、弾薬が尽きたため内山田に退いた  
212 5 28 宮崎 桐野利秋 宮崎から鹿児島方面・豊後等の軍を統監していた桐野は、宮崎を根拠地とするために宮崎支庁を占領し、軍務所と改称した。  
213 5 29 宮崎 西郷隆盛村田新八・池上四郎 村田新八らが相談し、池上随行のもと、狙撃隊等約2,000名の護衛で西郷隆盛が密かに宮崎の軍務所に移動。  
214 5 29 舞床 鵬翼隊3番中隊 官軍は3番中隊右半隊を攻撃し、薩軍は塁を捨てて後退したが、3番中隊左半隊の活躍により塁を取り返し、銃器・弾薬を得た  
215 5 29 大村 常山隊7番中隊 薩軍は大村に築塁し、守備を固めた  
216 5 29 竹田 別働第1旅団・熊本鎮台・第1旅団 伊東直二 竹田陥落 竹田市街約1,500戸が焼失
217 5 29 花倉山・鳥越坂 第4旅団 第4旅団が薩軍の不意を衝いて花倉山と鳥越坂から突入したが、撃退された。  
218 5 29 三方堺 鵬翼隊2番中隊 薩軍は官軍に襲われ、弾薬不足のため背進した このため舞床の薩軍鵯越に退いた
219 5 29 程角越 振武隊2番中隊・干城隊8番中隊 札松方面の鵬翼隊2番中隊が人吉に退却したため、2番中隊と8番中隊が程角越の応援のために進撃し、2番中隊は程角越の守備を開始、翼鵬隊2番中隊も同じく程角越に進撃した  
220 5 30 夜明け頃 程角越 官軍が程角左翼の塁を攻撃し、薩軍は敗北した。官軍は勢いに乗じて干城隊8番中隊・振武隊16番小隊を攻め、これにより薩軍は次-と原田村に引き上げた。  
221 5 30 五家荘道・照岳道 別働第2旅団(山田) 別働第2旅団主力部隊が五家荘道・照岳道などから人吉に向かって進撃した。  
222 5 30 鳳凰 淵辺高照・河野主一郎 官軍は人吉総攻撃を開始し、江代陥落。
薩軍各隊は各地で抵抗するものの、有効な反撃ができぬまま各地で人吉へ後退、あるいは孤立化。
鵬翼隊大隊長の淵辺高照は河野とともに球磨川に架かる鳳凰橋に向かったが、官軍の勢いは止められず、橋を燃やしてこれを防ごうとしたが、銃撃を受けて重傷を負い、吉田に送られたが死亡した。
223 5 31 佐伯 奇兵隊 佐伯に攻撃するも、失敗。  
224 5 31 宮崎 西郷隆盛 西郷が宮崎に着くと、ここが新たな薩軍本営となり、軍票西郷札)などが作られ、財政の建て直しが図られた。 西郷札は、宮崎の北・佐土原・ひょうたん島で印刷し、発行した。
十円・五円・一円・五十銭・二十銭・十銭の6種類あり、布に漆で印刷されたもので、発行総数は9万3千枚、総額14万2500円
225 6 1 早朝 人吉・大畑 諸道の官軍が人吉に向けて進撃し、諸方の薩軍は全て敗れ、人吉や大畑に退却した。これを知った中神村の鵬翼隊六番中隊・雷撃隊五番中隊・破竹隊一番中隊、その他2隊、鵯越の鵬翼三番中隊、戸ノ原の鵬翼隊五番中隊等の諸隊は大畑に退却した。 原田村の干城隊八番中隊・振武隊二番中隊・鵬翼隊二番中隊・振武隊十六番小隊、郷之原の破竹隊四番中隊、深上の雷撃隊一番中隊、馬場村の雷撃隊二番中隊等は人吉の危機を聞き、戦いながら人吉に向かった。
226 6 1 早朝~午後 人吉 山地元治・山川浩 村田新八 照岳道の山地中佐隊が人吉北西部郊外に到達し、続いて五木越道の山川中佐隊が川辺川沿いから人吉北部に突入した。後を追って各隊も続-突入した。
人吉城北約2kmの村山台地に砲台陣地を作り、薩軍本営がある球磨川南岸を砲撃し、永国寺や人吉城などの城下町は炎に包まれた。
村田新八が指揮する薩軍本隊約2,000名が応戦し、人吉城二の丸に設けた砲台陣地から砲撃したが、官軍の砲撃に太刀打ちできず破壊された。
午後には薩軍の抵抗は止み、加久藤峠方面に後退した。
村田新八薩軍後退の時間稼ぎをしていた。
227 6 1 竹田・臼杵 伊東直二 竹田の部隊を収容しつつ、小野市・三重へと移動して臼杵を攻撃。
三面攻撃で官軍を破り、占領した。
 
228 6 2 大畑・大口 村田新八・辺見十郎太 薩軍本隊は、敗走する各隊を収容しつつ、大畑を中心とした肥薩国境の山間部で、大口の雷撃隊と連携し、戦線を構築し、官軍の南下を食い止めようと抗戦しつつ、飯野に向かった。  
229 6 3 大関 雷撃隊 官軍が二方面から大関山への総攻撃を開始した。
官軍の正面隊は原生林に放火しながら進撃し、球磨川方面からは別働隊が攻撃した。
雷撃隊は激しく邀撃したが、二面攻撃に耐えきれず、大口方面に後退した。
官軍は、これを追って久木野前線の数火点と大関山・国見山を占領した。
 
230 6 4 人吉 人吉陥落 人吉攻防戦終局
231 6 4 人吉 別働第2旅団 犬童治成・滝川俊蔵 人吉全隊(280名)が別働第2旅団本部に投降した。 犬童達幹部は刑に処せられたが、それ以外は官軍に組み入れられた。
232 6 6 佐伯 奇兵隊 佐伯に攻撃するも、失敗。  
233 6 7 久木野 久木野陥落
薩軍は小河内方面に退却した。
 
234 6 8 小河内 官軍は追撃して小河内に退却した薩軍を攻撃し、占領した。  
235 6 10 臼杵津久見 伊東直二 臼杵を撤退した官軍は、臼杵士族の先導の元、戸次・野津・白木から臼杵に進軍。
臼杵沖から海軍軍艦「日進」「浅間」が艦砲攻撃。
伊東隊は官軍相手に善戦したが、南東の津久見方面に撤退した。
 
236 6 12 加久藤越 村田新八 大畑から戦いながら後退している薩軍本隊は、加久藤越(現えびの市)に到達した。  
237 6 13 山野 別働第3旅団
第3旅団
第2旅団
雷撃隊 山野陥落  
238 6 13 飯野 別働第2旅団 雷撃隊・村田新八 別働第2旅団は、薩軍本隊を追って加久藤峠を越えて飯野に進軍し、雷撃隊と薩軍本隊との連絡を絶った。 飯野で戦っていた薩軍本隊のうち、小隊長以下40名が官軍に投降した。
239 6 13 飯野 別働第2旅団 破竹隊・佐土原隊 加久藤に進軍した別働第2旅団は、飯野・川内川沿いで破竹隊・佐土原隊等約1,000名と交戦した。 戦いは21日まで続いた。
240 6 13 小林 村田新八 薩軍は小林に進駐。愛宕山の小林小学校で武器弾薬の製造を行った。  
241 6 14 大口 別働第3旅団
第2旅団
雷撃隊 雷撃隊が大口まで撤退 大口の防戦における辺見は、馬を弾雨の中に駆って、「ここを死地とせよ」と叫び続け、薩軍側の記録にも、「本日の辺見の勇奮、鬼神を見るが如し」と書かれている。
242 6 17 八代 官軍は八代で軍議を開き、別働第2旅団は小林攻略と大口支援、別働第3旅団・第2・3旅団は大口攻略後、川内・宮之城、栗野・横川方面への進軍を決定した。 雷撃隊は官軍の戦略的脅威の範疇から完全に外れることとなった。
243 6 18 大口 別働第3旅団
第2旅団
雷撃隊 辺見は官軍に多数の砲弾を浴びせて進軍を食い止めていた。  
244 6 19 大口 別働第2旅団・別働第3旅団 雷撃隊・熊本隊 大口北東の坊主石山が陥落。
別働第3旅団が郡山まで進軍。
高熊山に籠もる熊本隊を包囲した。
 
245 6 20 高熊山・大口 別働第2旅団
別働第3旅団・第2旅団
雷撃隊・熊本隊 熊本隊は官軍と激しい戦い(塹壕に拠る抜刀白兵戦)を繰り広げたが、人吉・郡山・坊主石山からの三方攻撃・物量・兵力の差で後退した。
雷撃隊本営の大口も陥落した。
大口撤退の際、辺見は祠の老松の傍らに立ち、覚えず涙を揮って「私学校の精兵をして、猶在らしめば、豈此敗を取らんや」と嘆いた。
後にこれが有名な「十郎太の涙松」の由来となった。
246 6 22 熊田 奇兵隊 官軍の海からの侵攻への備えと前線の支援のために本営を熊田に移し、各隊を集約した。 日向・豊後境界の山岳地帯(黒沢峠・赤松峠・陸地峠・宋太郎峠周辺)でゲリラ戦を展開。
薩軍本隊が撤退して延岡に来る8月中旬まで一帯を守り抜き、敗走する薩軍を迎え入れた。
247 6 23 宮之城 別働第2旅団・第3旅団 雷撃隊 官軍は宮之城を占領。雷撃隊の迂回挟撃を阻止しながら鹿児島に進軍。  
248 6 24 催馬楽 別道第3旅団 官軍は次-に薩軍の堡塁を落とし、夕方には鹿児島に入り、鹿児島周辺の薩軍を撃退した。 こうして官軍主力と鹿児島上陸軍の連絡がつながった。
249 6 25 栗野・横川 別働第2旅団・第3旅団 雷撃隊 雷撃隊は大口の南にある曽木~菱刈付近で官軍を迎え撃ったが奮わなかった。  
250 6 25 出水口 第4旅団・別働第3旅団・第2旅団 行進隊・振武隊・加治木士族隊 第4旅団は北上を開始し、大口から南下する別働第3旅団・第2旅団と連携して行進隊・振武隊・加治木士族隊を攻撃した。  
251 6 26 出水口 第4旅団・別働第3旅団・第2旅団 行進隊・振武隊・加治木士族隊 官軍は、出水口の薩軍を破った。  
252 6 27 蒲生 行進隊・振武隊・加治木士族隊 薩軍は蒲生へ撤退した。  
253 6 29 栗野・横川 別働第2旅団・第3旅団 雷撃隊 行進隊・振武隊が守る栗野・横川に後退した。 約2ヶ月にわたる大口の戦い終了。
雷撃隊に従軍した大口士族等は289名、戦死者は82名。
254 6 29 鹿児島 川村純義 退却した薩軍都城に集結していると予測した川村参軍は、別働第1旅団を海上から垂水・高須へ、第4旅団を吉田・蒲生へ、別働第3旅団を岡原・比志島経由で蒲生へ進め、都城を両面攻撃することとした。また、海軍には重富沖から援護させ、鹿児島には第4旅団の1個大隊を残した。  
255 6 30 都城
小林・高原・財部・庄内
敷根・福山・清水
市成・末吉・岩川
百引
大崎
村田新八
破竹隊
振武隊・奇兵隊
雷撃隊・行進隊
行進隊・振武隊
加治木隊・振武隊・奇兵隊
村田は都城を基点として西側に各隊を配置した。各隊には、豊後からの応援による奇兵隊や薩摩・日向各地から募兵・徴用した党薩諸隊が加わっている。  
256 7 1 川路利良 別働第3旅団司令長官の川路が、6月29日付で辞任して大警視に戻り、鹿児島を去った。 表向きは依頼退職であったが、実際は大山巌が、薩人が川路を非常に憎んでおり、このまま川路が薩摩に入れば薩軍の戦意が大いに高まることを懸念し、京都の大久保に川路を罷免すべきと意見具申したという。
257 7 1 加久藤 別働第2旅団
第2旅団
加久藤で合流し、宮崎攻略を目指す。  
258 7 1 国分 第3旅団
別働第2旅団
国分で合流。  
259 7 1 敷根 第4旅団 鹿児島から北上してきた第4旅団が敷根に到達。  
260 7 1 大崎 別働第1旅団 鹿児島湾を渡って大隅半島の高須に進んだ別働第1旅団が大崎に到達。 以上により、計6個旅団が都城を半円状に包囲して進軍した。
261 7 1 横川
牧園(踊)
別働第3旅団・第2旅団 薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊 官軍は横川を占領した。これにより薩軍の各隊は、牧園(踊)に退却し、陣を敷いた。  
262 7 3 加治木 別働第3旅団・第2旅団 官軍は加治木を占領した。 これにより、官軍全軍の戦線がつながった。
263 7 6 国分
牧園(踊)
大窪
別働第3旅団・第2旅団 薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊 官軍は国分から牧園(踊)にいる薩軍の背後を衝いたため、薩軍は大窪に退却した。  
264 7 6 国分
牧園(踊)
大窪
別働第3旅団・第2旅団 薩軍の雷撃隊六・八・十・十三番中隊、干城隊一・三・五・七・九番中隊、正義隊四番中隊 薩軍は、干城隊七番中隊を襲山の桂坂・妻屋坂の守備に向かわせ、踊街道から進出する官軍には正義隊四番・雷撃隊十三番・干城隊一番・雷撃隊八番中隊が対応した。また、襲山街道から攻めてきた官軍には、干城隊三・七番・雷撃隊六番中隊が対応したが、いずれも決着がつかず、両軍撤退した。  
265 7 7 国分
恒吉
市成・百引
別働第3旅団・第4旅団
別働第1旅団
中島健彦(振武隊) 中島が国分より恒吉に到着し、市成・百引に進駐していた官軍の背後を衝くため、夜、恒吉を出発した。  
266 7 8 市成
百引
二川・高隈
別働第3旅団・第4旅団
別働第1旅団
雷撃隊・行進隊
行進隊・中島健彦(振武隊)
市成では別働第3旅団・第4旅団、百引では別働第1旅団が、薩軍の攻撃により撤退し、薩軍は放棄された武器弾薬物資の捕獲に成功した。
中島率いる振武隊は、百引に到着し、三方面から官軍を抜刀戦術で襲撃した。不意を突かれた官軍は、二川・高隈方面まで敗走した。この戦いで薩軍死傷者は8名ほどであったのに対し、官軍の死傷者は95名ほどで、薩軍は官軍の砲2門・小銃48挺・弾薬など多数の軍需品を奪った。
官軍は、薩軍に対し兵力・物量が圧倒的に上回るため無理はせず、防護を高めて薩軍の疲弊を待ってから反撃することを考えた。
267 7 8 市成
阜上
二川
恒吉
別働第3旅団・第4旅団 越山休蔵・別府九郎(奇兵隊・振武隊・加治木隊) 越山・別府が市成に到着。越山達が三方面に分けて進撃したのに対し、官軍は阜上から砲撃し、戦闘が開始された。戦闘は激しくなり、夕方、官軍は民家に火を放ち、二川に退却した。薩軍も恒吉に引き上げ、振武隊十一番中隊を編隊し、奇兵隊一・二番中隊とした。  
268 7 10 飯野 別働第2旅団・第2旅団 破竹隊 飯野陥落  
269 7 10 敷根・清水
永迫
通山
第3旅団 行進隊十二番中隊 官軍が敷根・清水の両方面から永迫に進撃し、薩軍を攻撃。薩軍は通山に退却した。  
270 7 10 敷根・上段
福原山
行進隊八番中隊 敷根・上段を守備していた薩軍は、官軍の攻撃を受け、福原山に退却した。  
271 7 10 上段
通山
行進隊八・十二番中隊 薩軍は上段を奪回しようと官軍を攻撃するが、破ることが出来ず、通山に退却した。  
272 7 11 小林 別働第2旅団・第2旅団 破竹隊 官軍が小林に侵攻。薩軍は岩瀬橋に火を放って進路を遮断したが、官軍は水流迫・下ノ平・栗巣野一帯で砲を構え、薩軍の籠る岩牟礼城へ砲撃した。このため、薩軍は支えきれずに野尻へ撤退した。  
273 7 11 大崎
逢原・井俣村
別働第1旅団 奇兵隊 大崎に官軍が屯集しているとの情報を得た先発の奇兵隊は、奇襲したが、二番隊長が戦死するほどの苦戦を強いられた。そこで、勝敗が決しないうちに逢原・井俣村に退却した。  
274 7 11 荒佐
大崎
別働第1旅団 振武隊 後発の振武隊は進路を誤り、荒佐の官軍と遭遇し、半日にわたり交戦したが、結局大崎付近まで退却した。  
275 7 12 逢原・井俣村
大崎
別働第1旅団 奇兵隊
振武隊
奇兵隊は再度、大崎に進撃したが、荒佐(野?)の官軍はこの動きを察知して大崎にて激突した。当初、戦況は薩軍に不利な方向に傾いていたが、大崎の振武隊と合流し、官軍に快勝した。 しかし、末吉方面が危急の状態に陥ったため、村田新八は、この夜、各隊に末吉に赴くよう指示した。
276 7 12 大崎
串間
別働第1旅団 加治木隊・振武隊・奇兵隊
福島隊
別働第1旅団が大崎で薩軍を破って串間に展開した。  
277 7 12 赤坂・大川内 別働第3旅団 辺見十郎太 辺見は赤坂の官軍の牙城を攻撃するため、雷撃隊を率いて財部の大川内に進撃。大川内は左右に山があり、中央に広野が広がっており、官軍はその地形に沿う形で陣を敷いていたため、薩軍は左右翼に分かれて山道から官軍を奇襲し、優位に立ったが、雨が降り進退の自由を失い、あと一歩のところで兵を引き上げた。  
278 7 13 福山 第4旅団 福山に進軍。  
279 7 13 米良 阿多荘五郎(干城隊) 阿多が米良口の指揮を執ることとなり、諸隊を編成して米良方面の守りを固めた。  
280 7 14 小林
高原
別働第2旅団・第2旅団 破竹隊 横川から転進してきた第2旅団も含め、小林から高原に進軍し、占領した。  
281 7 15 早朝 嘉例川街道
通山
行進隊・奇兵隊・加治木隊 薩軍嘉例川街道の官軍を攻撃したが、守りは堅く、加治木隊指揮長の越山休蔵が重傷を負ったため、攻撃を中止して通山に退却した。  
282 7 17 植松
高原
別働第2旅団・第2旅団 堀与八郎 高原奪還のため、薩軍は、堀与八郎を全軍指揮長として雷撃隊・鵬翼隊・破竹隊などの9個中隊を正面・左右翼・霞権現攻撃軍(鵬翼三番隊)の4つに分け、深夜に植松を発ち、正面・左右翼軍は暁霧に乗じて高原の官軍を奇襲し、あと一歩のところで奪還するところであったが、官軍の増援と弾薬の不足により兵を引き揚げた。一方、霞権現へ向かった鵬翼三番隊は奇襲に成功し、銃器・弾薬等の軍需品を得た。 これを受けて官軍は警戒を強め、堡塁や竹柵を築いて薩軍の奇襲に備えた。
283 7 17 高野(田野?)
庄内
第3旅団・別働第3旅団? 辺見十郎太・別府九郎・河野主一郎 辺見は奇兵隊を率いてきた別府九郎と本営の伝令使としてやってきた河野主一郎らと合流し、荒磯野の官軍を攻撃するため兵を本道・左右翼に分け、夜明けに高野を出発した。辺見らの諸隊は官軍に対し善戦するが、河野が本営に帰還するよう命じられたことによる右翼の指揮官の不在と官軍の援軍の参戦、弾薬の不足により、雷撃隊は高野へ、奇兵隊は庄内へとそれぞれ退却した。  
284 7 19 高野(田野?)
庄内
岩川
第3旅団・別働第3旅団? 雷撃隊
辺見十郎太
都城危急の知らせにより高野の雷撃隊は庄内に移動し守りを固めた。
辺見は23日の岩川攻撃作戦のために雷撃隊六番・干城七番中隊を率いて岩川へ向かった。
 
285 7 21 高原
庄内
別働第2旅団・第2旅団 堀与八郎 薩軍は再び高原奪還を試みたが、官軍の強固な守備と援隊の投入により、庄内へと退却した。  
286 7 21 野尻 別働第2旅団・第2旅団 破竹隊 官軍と薩軍が交戦。  
287 7 22 野尻
高岡(紙屋)
別働第2旅団・第2旅団 破竹隊 野尻が占領され、薩軍は高岡(現宮崎市)に撤退した。  
288 7 23 高野(田野?)
岩川
末吉
辺見十郎太(雷撃隊七・八番中隊・干城隊七番中隊)・行進隊八・十二番中隊 行進隊と高野からきた辺見が合流し、辺見・相良を指揮長として岩川に進撃し、官軍と交戦した。16時間に及ぶ砲撃・銃撃戦であったが、結局、薩軍は官軍を破れず、末吉へと退却した。  
289 7 23 米良
高山天包
越の尾
阿多荘五郎(干城隊) 高山店包に進撃するも敗れ、越の尾に退却した。  
290 7 24 庄内
財部
末吉
第3旅団
別働第3旅団
第4旅団・別働第1旅団
河野主一郎・破竹隊 財部には粟谷から進撃し、薩軍を攻撃して占領した。続いて、退いた薩軍を追って、右翼の末吉には田口・猪子石から三木南・堤通に、左翼の庄内には高野村街道から平原村で河野主一郎部隊や破竹隊の守備を突破し、官軍が占領した。こうして薩軍は、都城盆地の庄内・財部・末吉戦線を支えきれず、相次ぎ陥落。  
291 7 24 都城 第3旅団
別働第3旅団
第4旅団
別働第1旅団
中島健彦(振武隊)
辺見十郎太(雷撃隊)
相良五左右衛門(行進隊)
第4旅団は福山と都城街道・陣ヶ岳との二方面から通山を攻撃した。中島は振武隊を率いてこれを防ぎ、善戦したが、すでに都城入りしていた別働第3旅団により退路を阻まれて大打撃を受けた。その間に第4旅団は都城に入ることができた。別働第1旅団は岩川から末吉の雷撃隊(辺見)・行進隊(相良)と交戦し薩軍を敗走させ、都城に入った。 こうして各方面で総崩れとなった薩軍は、官軍に都城を占領された。薩軍は宮崎に活路を見出そうとしたが、守備に適した都城を奪取された時点で、戦局の逆転はほぼ絶望的となってしまった。
292 7 24 山之口
三股
第3旅団
第4旅団・別働第3旅団
振武隊・行進隊・熊本隊
奇兵隊
中島健彦・貴島清は山之口で、別府九郎は三股で各隊を収容しつつ防戦。  
293 7 24 都城 山縣有朋 山縣が都城に入る。  
294 7 25 山之口
三股
第3旅団
第4旅団・別働第3旅団
中島健彦・貴島清(振武隊・行進隊・熊本隊)
別府九郎(奇兵隊
山之口の薩軍は官軍に破られ、撤退する。
三股では別府九郎の奇兵隊が防戦していた。
 
295 7 25 宮崎 薩軍は官軍の北・西・南からの攻撃に備え、宮崎を中心に諸隊を配置した。
※配置はwikiの「宮崎方面」参照
 
296 7 27 飫肥 別働第3旅団 飫肥 官軍が飫肥(現在の日南市)を占領し、飫肥隊約840名・薩軍約800名が降伏投降した。  
297 7 27 串間 別働第1旅団 福島隊 串間陥落。  
298 7 28 今別府
紙屋
別働第2旅団・第2旅団 辺見十郎太・中島健彦・河野主一郎・相良五左右衛門・破竹隊 今別府に集まった別働第2旅団・第2旅団が紙屋を占領。  
299 7 28 清武 第4旅団 官軍が清武を占領 宮崎から南へわずか七、八キロの距離である。
300 7 29 高岡 別働第2旅団・第2旅団 辺見十郎太・中島健彦・河野主一郎・相良五左右衛門・破竹隊 官軍は兵を返して高岡に向かう途中で赤坂の険を破り、高岡を占領した。  
301 7 29 越の尾
銀鏡
阿多荘五郎(干城隊) 越の尾に攻めてきた官軍に敗れ、銀鏡に向かった。  
302 7 29 宮崎 西郷隆盛 西郷が高鍋を目指し、宮崎を発った。 数日前に軍議が行われ、桐野の「鹿児島に向かい、一県を攻守する」という持論に決まったが、官軍の予想外の近接により、ひとまず北に向かった。
高鍋は秋月氏二万七千石の旧城下で、800名の士族がいる。
高鍋は、戦争前に貴島清が主に募兵を行った土地である。
303 7 30 穆佐・宮鶴・倉岡 第4旅団・第3旅団・別働第3旅団 各方面から進軍してきた官軍は、宮崎近郊(大淀河畔)を制圧した。  
304 7 30 佐土原
高鍋
第2旅団 西郷隆盛 西郷と薩軍本営は、密かに佐土原に移動したが、第2旅団の接近から高鍋に再移動し、31日早暁に到着した。 西郷隆盛ゃ 鰮かジャコか タイに追われて逃げてゆく」
西郷隆盛ゃ 仏か神か 姿見せずにいくさする」
305 7 31 高鍋
都農
西郷隆盛 西郷は高鍋を通り過ぎて都農に向かった。  
306 7 31 宮崎
佐土原
第4旅団・第3旅団・別働第3旅団 官軍は、雨で増水した大淀川を渡河し、宮崎市街に突入した。大淀川が増水しておりまだ官軍は渡河しないと見ていた薩軍は不意を突かれ、然したる抵抗ができないまま佐土原に撤退した。  
307 7 31 佐土原
高鍋
第2旅団
別働第2旅団
官軍は、撤退した薩軍を追撃するため、それぞれ北上した。  
308 7 31 高鍋河畔
市ノ瀬
第4旅団・第3旅団・別働第3旅団・第2旅団・別働第2旅団 桐野利秋・辺見十郎太・中島健彦・貴島清・河野主一郎・池辺吉十郎(熊本隊)・有馬源内(熊本協同隊)・高鍋 薩軍高鍋河畔に、官軍が一之瀬川沿いに軍を配置した。  
309 8 1 宮崎
佐土原
第4旅団・第3旅団・別働第3旅団・別働第1旅団
第2旅団
宮崎・佐土原の占領が完了した。  
310 8 1 宮崎 別働第3旅団 各占領地で薩軍捕虜が大量に発生し、その収容と管理が問題となったため、官軍は別働第3旅団を解団し、その対応に充てることとした。  
311 8 1 宮崎 新撰旅団 新撰旅団が海路宮崎に到着し、薩軍追撃に加わった。 新撰旅団は、主に志願士族による臨時巡査を中核に編成された旅団で、司令長官は陸軍少将・東伏見宮彰仁親王。なお、志願士族を軍人ではなく巡査としたのは、戦後、軍隊の過度な増幅による反乱(第2の西南戦争勃発)を恐れたため。
312 8 2 都農
大貫
西郷隆盛 西郷は都農を発ち、さらに北方に向かった。
夜、延岡西郊の大貫という村に泊まった。
大貫は南に大瀬川が流れており、自然の障害を成し、前面は狭い野で、背後は古墳群といった土地である。
野村忍介率いる延岡出張本営との合流を目的としていた。
薩軍は総勢は、今尚3,000名余を数えた。
313 8 2 綾北川(大淀川支川) 熊本隊 河畔で官軍の大軍に包囲され、兵少なく弾薬乏しく、遂に大潰乱した。
佐-友房は負傷し、隊長の池辺吉十郎は友軍を見失って彷徨し、日没後、人-が探し回ったが行方不明となった。
池辺は民家に潜伏し、転と所在を変えていたが、戦後捕らえられ、刑殺される。
池辺は前途に光明がないと悟っていた人吉攻防戦中の5月4日に、旧藩主細川護久太政官に頼まれて派遣した老臣大矢野源水と国友半右衛門から離脱を諭されたが、旧藩主の好意を泣いて謝しつつも、ここに至って途中で脱落することは義が許さないとして鄭重に断ったという。
314 8 2 高鍋
延岡
別働第2旅団 官軍が一ツ瀬川を渡って熊本隊を破り、高鍋に突入した。
薩軍はさらに北の美-津に撤退して戦線を構築し、薩軍本営は延岡に撤退した。
都城陥落以降、薩軍は拠点を失い、降伏投降も相次ぎ、嘗ての勢いは消え、組織崩壊の兆しが見えてきた。しかし、延岡で勢力を張る野村忍介率いる奇兵隊と合流し、士気と勢力回復に臨んだ。
315 8 2 銀鏡
美-津
阿多荘五郎(干城隊) 美-津に退却せよと命を受け、美-津に向かった。  
316 8 3 美-津 薩軍の残存部隊が美-津に入り、耳川北岸に防衛陣を布いた。
これに急追してきた官軍が南岸から鉄砲弾を送りつつ、その一部は上流を迂回した。
このとき、桐野は平岩、村田新八は富高新町、池上は延岡に陣を構えて諸軍を指揮した。
317 8 4 渡川 別働第2旅団 党薩諸隊 高鍋から内陸を迂回していた官軍は、鬼神野・坪野と進軍し、渡川で党薩諸隊の新募隊の背後を衝いた。
しかし薩軍は官軍の勢いを止められず、退却して6日、山蔭・美-津防衛に努めた。
 
318 8 6 美-津 上流を迂回した官軍が薩軍防衛陣の後方に出る勢いを示した。
それに対し薩軍は耳川から北走した。
北走する薩軍は、樫の木を細かく砕いて銃口に詰めるほど弾薬に乏しかったり、また食糧も四日間苺と草木の葉だけを食べたりなど、悲惨な状況であった。
319 8 6 西郷隆盛 西郷は薩軍の奮起を促すために自ら筆をとり、書状を諸隊長に送った。 「・・・勝算目前に相見え候折柄、遂に兵気相衰へ、・・・尤も兵の多寡強弱に於ては差異無之、・・・」
敵味方の兵力に差は無く、勝利は目前にあるという書状で、現実離れした内容であった。
320 8 7 山蔭
富高新町
門川
別働第2旅団 奇兵隊三・六・十四番隊 薩軍は官軍の攻撃を受け、山蔭から撤退した。
官軍はその勢いで薩軍を追撃し、富高新町に突入。薩軍はこれを抑えきれず、門川に向かった。
 
321 8 7 油津
佐伯
別働第1旅団2個大隊 官軍は、別働第1旅団2個大隊を海路佐伯に派遣した。  
322 8 7 延岡
熊田
池上四郎 池上は火薬製作所と病院を延岡から熊田に移し、本営もそこに移した。  
323 8 8 熊田 野村忍介 野村は、「勢まさに窮せんとす。」という絶望的な書簡を辛うじて豊後戦線を守っている小倉処平達に書き送った。 野村は延岡の防衛線で死のうとしていた。
324 8 9 門川湾 美-津の耳川から北走した薩軍は、門川湾付近に防衛陣を布いた。 この惨況のなかでかろうじて気勢を示しているのは辺見十郎太隊で、官軍を急襲して砲二門、弾薬三万発を奪っている。
しかし、圧倒的な官軍の戦力の前では、そういった戦術的勝利も大勢を変える程ではなかった。
325 8 12 延岡
熊田
西郷隆盛別府晋介 官軍各旅団は延岡攻略を開始。
西郷は船で延岡から北川をのぼり、熊田に宿陣した。
 
326 8 13 笹首 西郷隆盛別府晋介 西郷は少し南の笹首に移った。  
327 8 14 延岡 別働第2旅団
第3旅団、第4旅団、新撰旅団
西郷隆盛 未明、別働第2旅団が先陣を切って延岡に突入。
薩軍は中瀬川の橋を破壊するなど抗戦したが、第3旅団、第4旅団、新撰旅団が門川から延岡へ突入。
官軍の死傷者は26名、薩軍の死傷者は不詳、投降・捕虜が178名であった。
薩軍延岡城下から撤退し、夜にかけて北部の友内山~和田越(最標高点92m、峠道は39m※現在は消失)~長尾山の稜線に各隊を配備。
野村は、退却にあたり、見送りに来た延岡区長塚本長民に対し、鄭重に礼を言い、「延岡の地形は南北に川あり、これに拠って一戦すれば十分一時の急を救うに足る要害であるが、今まで延岡の士民があれほど薩軍に好意を示してくれたのにここを焦土するに忍びない。」と言って、塚本をひどく感動させた。
この日の晩、西郷・桐野・村田・野村・河野・高城・別府で軍議を行い、「明日は和田越まで南下し、その嶮に拠って官軍と決戦しよう。」と決まったとき、西郷が「明日は、一隊を率いて行き申そ。」と初めて戦について発言した。これに対し、諸将は反対したが、西郷は諸将の諌めを押し切った。遂に、今まで一度も前戦に現れなかった西郷が和田越に赴く。
328 8 15 早朝 濃霧 延岡 山縣有朋
別働第2旅団
第3旅団、第4旅団、新撰旅団
西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介 早朝、濃霧が立ちこめるなか、西郷は二匹の犬を連れ、桐野、村田、池上、別府達と共に和田越で全軍を指揮。
薩軍には、熊本隊や野満長太郎率いる熊本協同隊、竹田報国隊、高鍋隊、飫肥隊、増田栄太郎率いる中津隊もおり、一緒に南下した。
一方の官軍も山縣が和田越から約2km南に位置する樫山の小山から指揮。
そして霧も晴れた午前8時頃から戦闘が始まった。
日向灘から北川河口に進入した海軍軍艦が薩軍陣地へ艦砲射撃をかける中、官軍各旅団は山麓から友内山、無鹿山、和田越、小梓峠、長尾山へ攻撃をかける。
中津隊増田とともに小梓山~長尾山の一部までを守線として指揮していた野村は、「もはや逃げ場はないのだ。熊田に入り込んだところで餓死あるのみである。飢えて死ぬよりも進んで敵の中で死ね。」と叫んで兵を励ました。
西郷は桐野達とともに和田越におり、和田越南麓の堂坂の上には、薩軍が官軍から奪った砲が据えられており、火を噴いては反動で砲車が後退し、再び台上に上げては発射した。
薩軍も尾根から銃砲撃を麓の官軍にあびせた。神楽田(堂坂西麓の助田付近も?)から進軍する別動第2旅団は堂坂の泥濘と薩軍の砲撃に阻まれ、これを好機とみた桐野が決死精鋭の1隊(50名)を率いて馳せ下り、攻撃したために、別働第2旅団は危機に陥った。しかし、数に優る第4旅団の左翼が進出して第2旅団を救援し、やっとのことで桐野を退けた。
その後、両軍は一進一退の攻防を続けたが、別動第2旅団は小梓峠(無鹿方面も?)の熊本隊を圧迫した。薩軍も雷撃隊(辺見)・奇兵隊(野村)が熊本隊を支援したが、ついに突破され、やがて長尾山から退き、続いて無鹿山からも敗走し、昼頃には薩軍各隊が総崩れとなり北(熊田)へ退却した。
和田越の西郷は政府軍が迫っても陣を引こうとはしなかったが、周囲の者に担がれて和田越の北、長井村(現在の北川町)の俵野・児玉熊四郎宅に退却した。
熊本隊の新首領の山崎定平が腹部に貫通銃創を受け、飫肥隊首領の小倉処平はふとももを貫かれた。
午後1時、和田越一帯の丘陵を官軍が占領し、薩軍は包囲され北川沿いの谷に封じ込まれた。
残った薩軍は約2,000名まで減っていた。
薩軍は総勢約3,000~3,500名(党薩諸隊は770名)で、決起以来の精鋭も僅かとなり、武器弾薬も乏しく官軍に対抗できる状態ではなかったが、西郷の登場で士気が上がった。
対する官軍は総勢約35,000~40,000名を前戦に投入し、さらに北川河口に海軍軍艦を揃え、万全の体制と物量で薩軍を包囲した。
第1・2・4・別2、第3(延岡で予備軍として配置)、熊本鎮台は北方豊後から薩軍の脱出を防ぐ。

海軍軍艦は、龍驤・日進・精輝・鳳翔・春日・孟春・浅間・丁卯等が参加。山麓からの攻撃で不利な政府軍(陸軍)旅団を援護した。

このとき、官軍陣営には、西郷の実弟西郷従道陸軍中将が征討宮付という名目で来ており、西郷の従兄弟・大山巌と同室していた。
329 8 16 熊田~俵野 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 北川沿いの熊田~俵野一帯の谷間で包囲された薩軍は、武器弾薬も尽き、多くの兵が傷つき倒れ、組織的な官軍への対抗はもはや困難であったため、遂に解散令を発した。
結果、大半の党薩諸隊や傷病兵をはじめ、次-と官軍に投降、あるいは自決した。
西郷も、従僕の永田熊吉に「お前は菊次郎を負うて官軍に降伏せよ。慎吾(西郷従道)が悪いようにはすまい。」と言って長男・菊次郎を託し、愛犬2匹も野に放ち、鹿児島から持参した書類や日本に唯一つの陸軍大将の軍服を焼くなど、身辺整理を行った。
残った兵は鹿児島県士族を中心とする約600~1,000名で、官軍の包囲は次第に狭まり、西郷が宿陣する俵野・児玉熊四郎宅近くにも砲弾が落下し始めるなか、幹部達による軍議が行われた。
潔く降伏か、決戦の末に玉砕か、再起のため突破か、桐野は熊本へ、別府は鹿児島へ、野村は豊後へ、それぞれに論じたがまとまらず、一時は野村のかねてよりの豊後案に傾いたが、豊後から南下した熊本鎮台により熊田が陥落した報を受け、それも無理となった。
西郷直筆の書で、以下の通り行動の自由を公布した。
「我軍の窮迫、此処に至る。今日の事、唯一死を奮つて決戦するにあるのみ。此際諸隊にして、降らんとするものは降り、死せんとするものは死し、士の卒となり、卒の士となる。唯、其欲する所に任せよ。」

熊本協同隊や竹田報国隊が投降した。
なお、熊本協同隊主幹の崎村は、敗れた以上、一兵一士といえでもこれを殺すのは道ではないとし、さらに、日本の風習である切腹を醜態であると、当時としてはかなり稀な文明思想を持っていた。
中津隊と高鍋隊のうち約30名は降伏せず、西郷達に随行した。
また、熊本士族の第三勢力とも云うべき竜口隊隊長・中津大四郎は、解散の責をとって配下に投降を命じ、自身は自刃した。
330 8 17 俵野 山縣有朋 官軍はこの日、俵野付近の重囲(総兵力50,000名、全兵員に新型ライフル、四斤山砲、ア-ムストロング砲、クルップ砲など)を完了した。
午前5時半、俵野東南方の川島の台上に据えられた二門の山砲と一門のクルップ砲が、北川の流れを飛び越えて俵野に向かって間断なく発射された。

山縣はこの日、勝利軍総帥の心懐としてはおよそふさわしくない歌を詠んだ。
「夢の世とおもひすてにしゆめさめて
    おきところなきそのおもひかな」
可愛岳の東の壁基部の馬の背のような形を成している場所には第2旅団が峰に布陣し、第1・熊本鎮台と連携しており、さらに峰の上には出張本営まで置いた。

山縣は、「薩軍、窮蹙ス。必死ノ勢ヒ、ソノ跳脱、測ルベカラズ。薩軍ノ慣用セル手段ナリ。」と令し、哨戒を厳重ならしめたが、官軍幹部の誰もが、まさか薩軍が可愛岳をよじのぼるとは考えていなかった。
331 8 17 可愛岳 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 軍議はこの日も続き、午後4時頃になっても結論が出ず、「豊後に出る」という野村案(※このとき野村は不在)が出たりもしたが、西郷の裁定で河野・辺見が進言する案を採用した。「可愛岳を越え、官軍の包囲を突破する」案である。
官軍の重厚な包囲網、可愛岳という急崖を突破するためには、尋常ならぬ勇気・体力・天運のよさが必要であり、無謀の挙であることから反対意見が多かったが、(故郷で死にたい)という情念がこれを決心させた。
西郷はさらに「まず可愛岳をよじ登って、遠く三田井に出よう。三田井から北に行けば豊後の竹田であり、南に行けば鹿児島に通ずる。三田井で考えればよい。」とした。
西郷は軍議後、中山盛高をはじめ、全軍医を俵野・長井に残留させることとした。
そして、ささやかな酒宴のあと、午後10時、桐野が宿陣する岡田忠平方近くの山道から薩軍兵達は、地元の木こり・漁師を案内役に立て、可愛岳を登り始めた。
道は、樹木や茨が塞いでいる獣道で、先頭はいちいち斧で伐り倒して道を作りつつ進み、途中、道の無い箇所や断崖があり、岩肌の出た斜面を四つん這いになって登ったりもした。
西郷はこの四つん這いを「夜這ごとある(夜這いみたいだ)」と不意につぶやき、周囲の者を笑わせた。
突破隊の編成(全300~500名)
  前軍:河野主一郎・辺見十郎太
  中軍:桐野利秋村田新八
  後軍:中島健彦・貴島清
  西郷護衛:池上四郎・別府晋介(約60名)※前後に桐野・村田

行軍にあたり、「談話せぬこと、煙草を喫まぬこと。敵と遭遇しても発砲せぬこと。道標として先頭の者は木の枝に白紙を結んでいくこと」と解散令を発した後も軍律を徹底していた。
332 8 17 熊本隊 熊本隊が組織として降伏した。  
333 8 18 可愛岳 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 可愛岳は標高728mだが、断崖が続く険しい山である。
午前4時30分頃、ようやく前軍が頂上近くの鞍部・中の越に到達した。俵野の登り口から僅か6~7kmだが、一行は夜明けまでかかった。前軍の河野・辺見は、北側の小台地「屋敷野」に野営している官軍第1・2旅団の警備が手薄であることを知り、襲撃を決した。辺見は兵300名程を率い、足音を忍ばせながら「屋敷野」の崖上に出た。そして、黎明を待ち、辺見がラッパを吹かせるとともに大喝一声して崖を飛び降り、襲撃した。不意を衝かれた官軍第1・2旅団は混乱し、退却した。薩軍は官軍が総攻撃のため運び込んでいた銃弾約3万発・砲1門等を奪った。
そして、祝子川上流の渓谷に出て、和久塚・地蔵谷まで進み、野営した。
和田越の戦いで負傷し、川坂・神田伊助方で治療していた飫肥隊隊長・小倉処平は、薩軍が可愛岳に向かったことを知って後を追ったが合流を果たせず、途中の高畑山で自刃した。
334 8 18 祝子川 山縣有朋 暗いうちに起床した山縣は、延岡北方を流れる祝子川の河口北方のデルタ地帯に戦線を張っている右翼方面の巡視に向かった。騎馬で祝子川の橋を渡った際に夜が明け、それと同時に前方の可愛岳方面で銃声が群がって聞こえ、不審に思った。
すると、東北の川島方面から末松謙澄が慌ただしく一騎で駆けてきて、山縣に「薩軍西郷・桐野以下数百名が俵野から可愛岳を越えて脱出した」旨を報告した。
山縣はこの予想外の事態に、大阪で兵站を担当している鳥尾小弥太(長州)に対し、この急変と事態の経過を正直に書き送った。
「降る者、縛に就く者、累-数万に及ぶ。是に至りて賊巣全く抜けたり。」
「而して賊魁は則ち逸す。砂礫万斤一銭に値せず。」
「嗟呼半歳の征戦、鮮血幾斛、以て九仞の功を奏し、忽ち一簣の虧を生ぜしもの、有朋与つて罪あり。」
 
335 8 19 上祝子 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 薩軍は、祝子川の第2包囲線を破り、小岩屋を経て上祝子(西郷は小野熊治方)に泊まった。  
336 8 20 鹿川越
鹿川村
中川村
西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 薩軍は、祝子川水源付近の山と別れ、大崩山と鬼の目山(1491m)の間の鞍部・鹿川越(1205m)を通り、山浦峠を西へ越え、坂を下って小さな渓流(日之影川)に出て、湾洞越(日之影渓谷の西方にある崖道で、難所の距離は2km以上)、赤氷峠を越え、鹿川村~中川村(現在の日之影町)を抜けた。  
337 8 21 三田井 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 午前11時頃、辺見が兵80名を率いて三田井の集落に入り、午後3時頃、西郷が到着した。
ここで桐野は、官軍による包囲が極めて厳重であり、地形が非常に険しいことから薩軍全軍が突破することは困難であると考え、熊本城の奪取を提案するも、西郷はこれを却下し、深夜、薩軍は鹿児島に向けて南進を開始した。
山懸は、薩軍が熊本城を衝くと考え、細島港から別働第1旅団を船で熊本に派遣した。
また、熊本城の留守役の樺山資紀中佐・乃木希典中佐に対し、厳戒を要すという急使を出した。
さらに、第1旅団に追撃を命じ、別働第2旅団を椎葉~人吉方面に、第3旅団を佐土原から小林方面、第4旅団を宮崎~都城に派遣した。

この時期、増田は中津隊員に対し、中津に帰るよう勧めている。それに対し隊員は、「皆で中津を出てきたのだから皆で帰るべきではないか。」と言い、増田のみ残る理由を問うた。すると増田は以下のような言葉を述べた。
吾、此処に来り、始めて親しく西郷先生に接することを得たり。一日先生に接すれば一日の愛生ず。三日先生に接すれば三日の愛生ず。親愛日に加はり、去るべくも非ず。今は、善も悪も死生も共にせんのみ。」
これは、西郷という人間に接した増田が生死を共にしたいと言う程、西郷に魅せられたことを意味する。
338 8 24 七山
松ヶ平
神門
西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 薩軍は、再び山中に入るために高千穂渓谷を渡り、鞍掛山(729m)を東に見つつ徳別当、小谷内を過ぎ、杉ヶ越(1028m)を越え、西南へ行くうちに坂狩に出て、坂本という谷底に家-の張り付いている山里に降り、西郷や桐野以下の幹部は、専光寺を宿所として一泊した。 専光寺で桐野が西郷に「いま、何時ごわす。」と聞くと、西郷は時計を失くしたと答えた。西郷が付けていた金時計は、光り物が好きな桐野が喉から手が出る程欲しがっていたものであった。執着がなかった西郷は、拾った者に譲ると言ったため、桐野が探しに出ようとすると、既に拾った者が届けにきたので、その者の所有物となり、桐野はしつこく「売ってくれ。」と懇願し、遂に300円という大金でその金時計を買い取った。
339 8 25 七山
松ヶ平
神門
別働第2旅団松浦少佐 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 南東に折れ、赤土岸山(1169m)の西南麓の谷下を通り、大仁田山(1316m)の道を南へ目指し、次いで七ツ山や九郎山の東麓の小さな渓流を下って松ヶ平を抜け、耳川上流に達し、神門(小丸川上流)に出たが、ここで別働第2旅団松浦少佐の攻撃を受けるも、何とかこれを免れた。
耳川の流れを南に渡って再び山中に入り、岩屋谷、山瀬、清水岳(1205m)付近、コムギノ越、折立を経て鬼神野という山中の村に入った。
 
340 8 26 村所 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 夜半から風が荒れ、雨は滝のように降り続けていた。
道は登りになり、茶屋越(679m)、五郎越(760m)を経て征矢抜を過ぎ、銀鏡に泊まった。
 
341 8 27 村所 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 この日も風雨は弱まっていなかった。
銀鏡から赤髭山(952m)の北の棚倉峠を越えて松原に出て、松原から天包山(1189m)の難所25kmを越えて、村所を通過した。
村所には佐土原への米良街道が通っている。
山懸は、細島港から第2旅団を船で鹿児島に派遣した。
輸送艦船は、「軍艦高雄」「隅田丸」「和歌浦丸」「全済丸」「鳳翔号」「赤竜丸」の6隻である。
342 8 28 須木
小林
西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 西米良山に入り、西ノ俣山(917m)の西方を通って須木を通過し、山越え(夏木、九瀬経由)で小林に入った。 この日、突囲後11日目であり、宮崎の山の難所はこれでほぼ尽きた。
343 8 28 正午 錦江湾 第2旅団(三好重臣 第2旅団は錦江湾に入り、一斉に重富の浜に上陸し、三好は加治木に本営を置いた。 鹿児島各地には、警備用の旅団として新撰旅団が駐屯している。
他にも、錦江湾には海軍勢力が遊弋し、県下に東京から送られてきた巡査1,500名が24箇所に屯拠している。
344 8 29 加久藤 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 薩軍はこの日、加久藤の麓を目指した。
夜、一行は鹿児島県横川に達した。
先鋒を騎馬で駆けている辺見は、道中に官軍が軍用電信のためにひかれていた電線を斬りながら進んだ。
後にこれが、薩軍の鹿児島突入が山懸等の官軍上層部に伝わるのが遅れる要因となる。
345 8 30 溝辺 第2旅団 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 薩軍が溝辺(現鹿児島空港)に達しようとした頃、官軍の待ち受けに遭ってしまい、突如激戦を交わした。しかし、真昼間では斬込みも効かず、突然の遭遇戦であったために西郷の位置が敵に近過ぎたことから、薩軍は後退した。
退却した薩軍は、牧園の芦谷原まで下がり、夜、厳戒しつつ宿営した。
薩軍は加治木進出を図るが、薩軍の南進を阻止すべく鹿児島湾、重富に上陸した第2旅団に阻まれた。
346 8 31 蒲生 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 薩軍は、辺見案の蒲生を通った。
夜10時頃に宿所に入ったが、翌未明3時頃にはもう出発した。
 
347 9 1 鹿児島 西郷隆盛桐野利秋村田新八、池上四郎、別府晋介、野村忍介、河野主一郎、辺見十郎太 迂回した薩軍は、官軍の守備隊を撃破して鹿児島に潜入した。
午前11時頃、辺見は、吉野街道を経て城山の下の岩崎谷に至り、私学校を守っていた新撰旅団輜重隊(指揮官:綿貫少警視)と水兵(指揮官:仁礼海軍大佐)約200名の官軍を奇襲して私学校を占領し、突囲軍の主力は城山を中心に布陣した。
官軍は、県庁前の米倉まで一時撤退して態勢を整え、騒然たる市街戦が始まった。
城山にいた官軍に対しても、辺見は僅か四十数名で駆けのぼって激戦の末、これを追い出し、城山を占拠した。この間、辺見は右額の骨を削るほどの擦過傷を受けた。
そのうち後続する薩軍が入り、新撰旅団の市街地兵力を圧迫し、新撰旅団は米倉を小要塞としてこれを守るのみとなった。
岩村通俊県令(※4月に赴任)以下役人達も、海上の軍艦高雄に逃げた。岩村は、京都の大久保利通にこの旨を急報するとともに、巡査三千名の急派を懇請した。
薩軍三百余、城山ニ拠ル」という報は、任を解かれた川路がいる東京や官軍の後方基地である大阪、総指揮を取っている京都を駆け巡った。
このとき、鹿児島の情勢は大きく薩軍に傾いており、住民も協力していたことから、薩軍鹿児島市街をほぼ制圧し、官軍は米倉の本営を守るだけとなった。
鹿児島を出たときには1万余名だった兵力は、戦いの最中での徴募で延べ3万名まで達したが、長井・俵野では3千名まで減り、そのうち5~6百名がこの踏破に参加し、鹿児島に帰ったときには370余名となっていた。
戦後、長崎の樹医西道仙が、この行動における薩摩隼人の痛ましさと美しさを詠んだ。
孤軍奮闘、囲ヲ破ツテ還ル
百里程、塁壁ノ間
我ガ剣ハ已ニ折レ、我ガ馬ハ斃ル
秋風屍ヲ埋ム、故郷ノ山
348 9 2 昼頃 鹿児島 午後、薩軍主力が鹿児島に入り、鹵獲した臼砲を稲荷堂と新照院山にひっぱりあげ、眼下の米倉に砲弾を落下させた。
官舎にいた渡辺千秋大書記官は逃亡、雇員池上荘平は背に銃弾を受けて即死。
病院に薩軍が斬り込み、医官塚田義豊、中川文平を斬殺(患者の安否は不明)。
夕刻、加治木の第2旅団先発隊が加勢し、薩軍は城山に撤退した。
薩軍は、県下の戸長、副戸長に対し、「有志の面は、鹿児島表へ駆付、到着申し出られたく候。」といった募兵の檄文を発した。
349 9 3 鹿児島 朝、臼砲の操作兵が死傷し、いなくなった。
このため、官軍が形勢を逆転し、城山周辺の薩軍前方部隊を駆逐した。
夜の城山での軍議で、貴島清は米倉への白兵突撃を提案し、一同の賛同を得た。貴島は喜び、すぐ一隊編成すると言った後、一同に向かい、「去る2月の鹿児島進発の折、自分はいささか考えるところあり、同行せざりけり。なお諸君は疑うや。」と投げかけた。それに対し、一同を代表して桐野が、「今日まで生死を共にしてきた貴君を誰が疑うか。」と述べた。
なお、この貴島の決死行に、中津隊の増田宋太郎が同行したいと志願した。
西郷は、野村忍介(城山で加療中)の下僕で、かつて戊辰戦争で砲隊の人夫として従軍し、臼砲の操作を知っていた助八を寄越してほしいと野村に手紙を書いた。
「御方の健僕の助六儀、お差支えの筈とは思いますが、大砲打方の儀、右助八罷り非ずして相済まぬ趣につき、何卒製作方へお遣わした下されたく、お願いします。」
350 9 4 鹿児島 夜も更けきった頃、貴島清率いる決死隊100余名が密かに城山を降り、側溝の中に入り、水音を立てずに身をかがめて歩行し、午前3時頃、貴島率いる一隊は米倉の東門に達し、副将北郷万兵衛率いる隊はその北塁に至った。そして、柵を破り、米俵の塁をよじ登って塁内に飛び込み、官軍の兵を刺殺した。これに対し驚いた官軍が銃を乱射したことから、激闘が始まった。官軍の総指揮官は伊藤祐麿海軍少将であり、新撰旅団、警視隊、第2旅団の一部がいた。薩軍は隊長自ら陣頭を駆けて奮迅することが習慣であったが、貴島のそれは度を越えており、幾重もの銃撃が飛ぶなか、全身が返り血で血みどろになる程、手あたり次第に斬った。しかし、狼狽から立ち直った官軍の圧倒的な火力による数十もの狙撃を受け、10名程に囲まれて銃剣で突かれ、額にも突かれたがなおも怯まず、真っ向からその兵を斬り倒した後、乱弾を浴びてようやく斃れた。その後、北郷万兵衛、増田宗太郎も斃れた。こうして幹部がほとんど斃れた後、30余名の大半が負傷したまま退却し、夜明け頃に城山に戻った。 宮崎海岸を南下した山縣は、高鍋において諸種の電信を得た。
351 9 5 宮崎 山縣有朋 宮崎に入った山縣は、薩軍が鹿児島に入ったという確報を得た。 山縣に情報が入ったのが遅くなった訳は、辺見が先鋒で鹿児島に入った際、道傍で故郷に見慣れない架線が引かれており、それらを全て切り払ったためである。
352 9 6 鹿児島 各地に散在していた各旅団が集結し、官軍が城山包囲態勢を完成させた。
一方で都城に入った山縣は、「唯包囲するのみで決して攻撃するな。」と現地に指示した。
このとき、薩軍は350余名(卒を含めると372名)となっていたため、編制を小隊(各隊20~30名)に改めたうえで以下のように諸隊を部署した。
※銃所持者:150名、弾薬:なし → 桂久武が岩崎谷に弾薬製造所を急造
※私学校の官軍から奪取した四斤短砲2門、臼砲3門、かつて川尻から運んであった四斤砲長短各2門、臼砲2門

 前線
    岩崎本道方面 ─ 小隊長河野主一郎(防衛第一線)
    私学校・角矢倉方面 ─ 小隊長佐藤三二(防衛第二線)
    県庁・二ノ丸・照国神社方面 ─ 小隊長山野田一輔(防衛第三線
    大手・本田屋敷方面 ─ 小隊長高城七之丞・副小隊長堀新次郎(防衛第四線)
    上の平・広谷・三間松方面 ─ 小隊長河野四郎左衛門(防衛第五線)
 内線
    新照院・夏陰下方面 ─ 小隊長中島健
    夏陰 ─ 小隊長岩切喜次郎
    後廻 ─ 小隊長園田武一
    後廻・城山間 ─ 小隊長市来矢之助
 本営
    洞窟九つ
    狙撃隊 ─ 小隊長蒲生彦四郎 … 西郷の警護
    城山方面 ─ 小隊長藤井直次郎
353 9 7 福山 山縣有朋 錦江湾沿岸の福山に着いた山縣は、ここから運輸局所属の汽船に乗って鹿児島に向かった。 錦江湾は海軍中将川村純義が指揮をする艦隊によって完全な制海権が確立されている。
354 9 8 鹿児島 山縣有朋 参軍の山縣が鹿児島市街の北郊を流れている稲荷川河口で汽船を降り、短艇で河口に入り、永安橋付近で上陸し、目の前の多賀山を官軍本営とした。山縣は、可愛岳の二の舞にならないよう、「包囲防守を第一として攻撃を第二とする」という策を立てた。
このとき、薩軍の人数は800名ともいい、1,000名ともいう」と報告を受けた(実際は350余名)。
官軍は、城山そのものを檻の中に入れてしまうといった具合に、四重五重にも竹矢来を張り巡らせ、大小の山道には壕を掘ったり、逆茂木を植え込んだりして薩軍が山から降りられないようにした。
その間、海からも艦砲をもって城山に間断なく砲弾を送り込んだ。
官軍の戦力は約70,000名であり、以下のように部署した。

    丸岡・浄光明寺上の原 ─ 第2旅団(三好重臣少将、本営鶴見崎)
    高麗橋・谷山道・海岸沿・西田橋 ─ 第3旅団(三浦梧楼少将、本営騎射場)
    多賀山・鳥越坂・桂山 ─ 第4旅団(曽我祐準少将、本営韃靼冬冬)
    甲突川・西田橋・朽木馬場 ─ 別働第1旅団(高島鞆之助少将、本営原良)
    下伊敷 ─ 別働第2旅団(山田顕義少将、本営上伊敷)
    米倉方面 ─ 警視隊(本営米倉)
355 9 9 京都 大久保利通 大久保は、東京の川路宛に手紙を送った。
「当地ノ賊ハ、私学校、旧城内ヲ引揚ゲ、多クハ城山塁ニ拠ル勢ナリ。昨今、各旅団追-来着、一両日ニハ十分取囲マレル様、可相成ト存候。」
 
356 9 18 鹿児島 辺見十郎太、河野主一郎 河野は、脚を負傷して病院にいる辺見からの「すぐに来てほしい」という手紙を受け取り、病院に向かい、辺見と会った。辺見は、「先生を助けたい。政府軍の本営に使いしてくれ。」と泣きながら頼み、河野も同感し、「時機を見て実行する。」と約束した。  
357 9 19 鹿児島 山野田一輔、河野主一郎

夜、官軍は特別に攻撃隊を編成し、後日(24日未明)総攻撃を行う場合の威力偵察を兼ねて、各方面で僅かに攻勢に出た。河野の守備隊もこの攻撃を受け、兵士達はもろく崩れ、退却した。これを受けて河野は、自軍の兵士にもはや戦う気力が無くなっていると見て、辺見との約束を果たすべく、実行に移した。
西郷は、これまで陣所としていた野村某の屋敷裏の土窟や馬乗馬場という路上から、新たに掘らせた岩崎谷洞窟「第一洞」に移動し、以降、ここで穴居した。
この洞窟が、今日保存されているものである。
以下、薩軍諸将は以下の洞窟を陣所とした。
・第二洞(第一洞から道路を隔てた崖):辺見十郎太
・第三洞:桂久武兵站責任者)、新納軍八
・第四洞:国分十助
・第五洞(作戦会議室):桐野利秋
・第六洞:別府晋介
・第七洞:村田新八
・第八洞:伊東直二
・第九洞:野村忍介(病院にいた後に移動)
358 9 20 鹿児島 河野主一郎 朝、河野は村田・池上達に辺見との約束について相談し、同意を得た。
そして、河野は西郷の元に赴き、挙兵の意を説くため政府軍に使いしたいと西郷救命という本当の目的を隠して西郷に願い出た。西郷は微笑して「唯唯(唯、子の意に任せられよ)。」と返した。
 
359 9 21 鹿児島 河野主一郎 朝、河野は再び西郷に会いに行った際、永年の慈育を謝して訣れを告げた。
これは、山を下りて官軍と交渉するという挙は、交渉というよりも殺されに行くといった方が正しく、無事官軍首脳に会えたとしても死刑は免れないと踏んだためである。
河野の挙に山野田一輔が同行を志願した。
山野田はこの夜、友人を集めて酒宴をし、辞世の歌を詠んだ。
360 9 22 鹿児島 西郷隆盛 正午、河野は岩崎谷の営を出て、二ノ丸の山野田の営所(鶴嶺神社)に寄り、山野田とともに兵士達が作った白旗を持って敵塁に向かい、高島鞆之助が応対した。高島は、事の趣旨を聞くと、自分の手に負えないとし、両人を警視隊に引き渡した。河野・山野田は「川村どんにお会いしたい。」と訴え続けた。

一方、西郷は「城山決死の檄」を出し決死の意を告知した。

桐野は、官軍捕虜である三浦藤一郎に「日本は朝鮮を取らねばならぬ。朝鮮を取ることは容易である。しかし朝鮮の背後には清国がいる。他日清国と戦うときが日本の危機である。自分はこの城山で死ぬが、以上のことを官に在る者であれば誰でもいい、桐野が憂慮していたと伝えてもらいたい。」と言い、今夜脱出するよう促した。
今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て、大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し、後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。
(河野主一郎、山野田一輔を敵陣に派遣したのは、味方の決死を敵に知らせることと、河野達にこのたびの義挙の趣意を法廷で述べさせるためである。彼らは法廷において斃れるであろう。一同は安心して城山を枕に決戦し、後世に恥辱を残さないようにするべきである。)
361 9 23 鹿児島 西郷隆盛 朝、河野・山野田は磯の集成館に連行され、ここで川村純義と対面することができた。
河野・山野田は、「大久保・川路が西郷を殺すべく刺客を県下に潜入させた。そのため、政府を尋問するために熊本に至ったが、政府軍が行く手を遮ったため、止むを得ず、兵端を開いたのだ。戦いは我-の志ではなかった。」と主張した。
この主張は、これまで薩軍が文書をもってさかんに宣伝してきたものであり、川村の耳にも何度も入っていた。川村は、「それならばなぜ西郷個人が両人(大久保・川路)を法に照らして訴えなかったか。」と返した。さらに、「西郷が悪いのではない。私学校が悪い。」「開戦前、自分は身を挺して鹿児島に入り、西郷に対面すべく申し入れたが、それを私学校が邪魔をし、軍艦を襲撃しようとし、やむなく去らざるを得なかった。あのときなぜ自分の申し入れに邪魔したのか。」と続けた。
また、河野・山野田の話が西郷助命に及ぶと、川村は苦しげな表情をして、「せめて都城」と言った。「戦局が都城の段階であればなんとか奔走できたかもしれないが、戦いがここまで進み、両軍の死傷がこうも甚だしくなった以上、もはや為す術がない。」と言った。
そして最後に、西郷自身がここまで来れば、何とかなるだろうという主旨のことを言い、この自身の発言で西郷が赴くことを期待し、24日未明に総攻撃が行われるという作戦機密まで公然と明かした。
そして昼過ぎ、川村は河野を留め、山野田を帰した。これが、両人の生死の分かれ道であった。

午後2時過ぎ、山野田が薩軍陣営に戻り、持ち帰った川村からの降伏の勧めや参軍山縣からの西郷宛の自決を勧める書状を西郷に渡した。すぐに軍議が開かれ、二、三の応酬があった後、西郷は「回答の必要は無か。」と発言した。この一言は、決戦と闘死を意味する。

軍議後、桐野の命令で各防衛線から2、3名ずつ代表が呼び集められ、桐野の口から軍議の決定事項が伝えられた。一同、口をそろえて死闘を誓った。

別府晋介は軍議後、周囲の人-に「明日のこと、愉快言ふべからず。吾人斃るるまで奮戦すべし。」と言った。

この日は、大雪の中鹿児島を発った2月14日と違い、晴天であった。

夜になり、西郷の洞窟の前に士卒が集まり、最後の酒宴が開かれた。また、前線の各堡塁でも酒宴が開かれた。
夜、各地で酒宴が開かれている一方、岩崎谷の大小荷駄に密かに集まり、明日官軍に降伏することを約束した一同がいた。
佐藤三二、伊東直二、別府九郎、神宮司助左衛門、そして野村忍介である。彼らは近衛将校時代に大尉であったために親交が深く、また豊後戦線において共に戦った仲である。彼らは、これまでに何度も桐野の作戦指導の愚劣さを指摘し、別の作戦を意見具申したが却下されてきたことから、桐野を嫌っており、桐野がやったこの愚劣な戦さでおめおめ死ねるかという感情が強かった。野村は実際にこの密会において「この戦いは桐野の戦いであった。」と発言した。
362 9 24 午前4時 鹿児島 西郷隆盛 午前4時、浄光明寺山の官軍砲台からの3発の砲声を合図に、官軍の総攻撃が始まった。
まず、夏陰口が破られ、続いて新照院越が破られた。この方面の隊長・中島健彦は乱戦のなか消息が途絶えた。山上の城山も、隊長・藤井直次郎達がよく防いだが、40分程で壊滅した。「後ノ廻」方面の防衛隊も1時間程で潰えた。
大手口では、30名の指揮をとる高城七之丞、掘新次郎が戦っていた。掘は、10名程の配下の兵士達に、「すでに事ここに至る。降りたい者は降れ、死にたい者は死ね。」と言って隊を解散し、その後、大刀を持って「西郷先生ヲシテ死ニ至ラシム。国家ノタメニ遺憾ナリ。」と叫びながら官軍を斬り倒したが、忽ち乱弾を浴びて斃れた。高城は、脚に銃創を受けて倒れたが、傷口を縛って立ち上がり、兵達に死のうと生きようと勝手にせよという旨の解散命令を出した。その後、官軍に包囲され、頭に一弾、腹に二弾を同時に受け、斃れた。
私学校方面は立見尚文が担当した。
最難関とされる西郷達がいる岩崎谷方面は第四旅団(曽我祐準)が担当し、大沼渉陸軍少佐率いる大隊が主に担当した。このうち、古荘幹之率いる第二中隊が、午後1時、事前に岩崎谷口に隠密裏に潜行していた。大沼は、古荘率いる正面攻撃隊と浅田信興中尉率いる別働隊に分かれさせ、古荘は麓から坂を登って薩軍の大堡塁に攻撃を加え、一方で浅田は城ヶ谷から夜陰に紛れて道なき道をよじ登って岩崎口の上に出るという作戦をとった。谷の上には、左右に分かれてそれぞれ薩軍堡塁が存在するため、浅田がこれらを奪取し、高所から岩崎谷の薩軍本営を瞰射し、古荘隊の正面突撃を可能にするというものである。
総攻撃の砲が鳴ったと同時に、浅田達50余名の攻撃隊が一斉に尾根にいた堡塁に突入し、奪取した。これに呼応して古荘隊も突入しようとしたが、薩軍が最も重厚に組んだ竹矢来や防衛物に行く手を阻まれ、そのうちに薩軍堡塁から射撃を受けてしまい、攻略に困難を極めた。
そのうち、夜が明け始めた。
このとき、西郷の洞窟前には、蒲生彦四郎が、部下の小倉壮九郎(東郷平八郎に実兄)や兵士20余名と予備部隊として待機していた。やがて、洞窟前に諸将・桐野・桂・村田・池上・別府・辺見らや各堡塁で敗れた者達が集まり、総勢40余名となった。洞窟の中で支度を終えた西郷が出てきて、40余名は整列し、岩崎口に向かった。
洞窟前を出てほどなく、小倉壮九郎が突然「お先に。」と言い、隊列から飛び出して自刃した。このとき、桐野は「そげん急がんでもよか。」と思わず声をあげたという。続いて、国分寿助が隊列から離れ、自刃したか、弾に当たったかで斃れた。
途中、桂が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続いた。そして、樹木が生い茂る所で、別府か辺見が「もうゆはごわすめか(もうよくはございますか)。」と言ったが、西郷は「まだまだ。」と答えた。そして午前7時過ぎ、林の中を抜けたところで飛弾の密度が圧倒的に濃くなり、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。
西郷は、突んのめるようにして倒れたが、すぐ体を起こし、負傷して駕籠に乗っていた後ろにいる別府を顧みて、「晋どん、もうここでよか。」と言った。別府は、「そうじ(そうで)ごわんすかい。」と言って駕籠をおろさせ、地上に立った。将士が跪いて見守るなか、西郷は、跪座し襟を正し、遙かに東方(天皇陛下)を拝礼した。
そして、切腹の用意が整うと、別府は「御免なって賜も!」と叫ぶや、西郷を介錯した。
西郷の切腹後、村田は「噫、天なり。」と歎き、涙が頬をつたうままに歩き、大堡塁の上で切腹した。桐野・池上・辺見・山野田達は岩崎口の大堡塁まで再度進撃し、桐野は全身を敵に曝け出したまま射撃し、辺見達は塁内から射撃した。遅れて別府も堡塁内に入り、射撃に加わった。やがて桐野が至近距離で官軍の狙撃によって額を貫かれ、絶命した。続いて別府や辺見も敵弾に斃れ、午前9時頃、銃声は止み、大堡塁は静かになった。
岩崎口の担当に曽我が選ばれたのは、薩長出身でないといった理由であり、その配下の大沼も同様であった。古荘は熊本出身ではあったが、薩人に対し少しも同情を持っていなかった点で選ばれた。

戦死を肯(がえ)んぜず、挙兵の意を法廷で主張すべきと考えていた別府九郎・野村忍介・佐藤三二・神宮司助左衛門らは熊本鎮台の部隊に、坂田諸潔は第4旅団の部隊にそれぞれ降伏した。
363 9 24 鹿児島 光明寺台地の官軍本営にいる山縣は、上之原台地にいる大山のもとに赴き、「岩崎谷口に行きますか。」と声をかけたが、大山は微笑しただけで辞退した。
山縣をはじめとする官軍の高級将校達は、西郷や薩軍幹部の死体が並べられている所に着いたが、彼らに勝利者としての軽躁さはなく、重い沈黙がその場を支配した。
やがて、山縣は「余を知る、翁に若くはなく、翁を知る、余に若くはない。然るに、いま・・・。」とつぶやいて絶句した。
大山が遅れて岩崎谷口に到着し、私学校付近で西郷の遺骸その他の状況を聞き、鄭重に埋葬されると聞くと、安堵した。これは、山縣が薩軍将校からの申し出を受け入れたためである。そして、西郷以下幹部級40余名が浄光明寺墓地に鄭重に葬られた。

城山陥落の報が伝わったとき、大久保は、「今や天下の形勢は全く一変した。これより鋭意諸般の改革をしたい。」と語った。この談話は、同席していた伊東博文と大隈重信が聴いており、大久保は、維新以後の太政官の業績を振り返り、「成功した事例もあるが、失敗した事例も多い。さらに言えば、種-の関係や情実があり、為さんと欲して為せなかったことが最も多い。」と続けた。これは、薩摩勢力の邪魔があって決行できなかったことを意味する。「今後、10年。」「内治を整へ、民産を起こす。」と語った。つまり、西郷の亡びによって士族の反乱時代が終わり、内治に専念できる新時代が始まったという大久保の考えによるものである。
西郷従道が城山陥落の報を聞いたのは自宅で大久保の手紙を読んだときであった。手紙を読み終えて顔が蒼くなった様子を見た妻のお清が何かあったのかと聞いても口をきかなかった。夕食のときも黙りこくり、夕食が済んでもなお座っていたが、やがて、「今日、城山が落ちた。兄が最期を遂げた。」というなり、声を上げて哭き出した。
西南戦争による官軍死者は6,403人、西郷軍死者は6,765人に及んだ。
また、鹿児島の56ある町のうち、約3分の1に達する9,778戸が灰燼となった。
これに対し大久保は、薩摩の士民の反撥を恐れ、持ち家を全焼した者には8円50銭の補助金を与え、「窮民救助法」が施行された。
この戦争では多数の負傷者を救護するために博愛社日本赤十字社の前身)が活躍した。
また、特に顕彰されたわけではないが、類似した例に熊本の医師・鳩野宗巴が、薩軍から負傷兵の治療を強要された際に、敵味方なく治療することを主張し、これを薩軍から認められ実施したことが挙げられる。宗巴の行動は戦後、利敵行為として裁判にかけられたが、結局無罪判決を下されている。

 

 

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