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近代戦争~山水の間に高蹈長嘯せんのみ~

製作した近代戦争動画の補足説明を中心に、使用したソフトやその他思いついたことを記事にしています。

西南戦争ラスト動画(第11弾・城山籠城戦から戦争終結まで)の紹介

先日アップした西南戦争ラスト動画(第11弾・城山籠城戦から戦争終結まで)をご紹介します。

 


西南戦争(11・城山籠城戦から戦争終結まで) / Satsuma Rebellion

 

 

9月1日、辺見率いる先鋒隊が突然、城山に現れ、後続隊と共に瞬く間に城山を占領します。

私学校を警備していた(屯していた?)海軍や新撰旅団は、まさに青天の霹靂であったことでしょう。

鹿児島県民の平定のために大山綱良に代わって役職に就いた県令・岩村道俊(土佐藩出身)はこの時、当時の鹿児島県庁にいましたが、すぐに軍艦高尾に逃れ、軍用通信が整っている長崎に向かい、現状を京都にいる大久保に急報しました。

そしてこの報は、本戦争の兵站を担っている大阪や、政府がいる東京を駆け巡りました。

9月3日、貴島清は明治政府軍が集結する前に米倉を奪還する必要があると考え、白兵突撃を提案しました。明治政府軍がまだ集結していないとはいえ、米倉には西郷軍を遙かに上回る兵数・火力があります。当然、貴島や西郷軍幹部はこのことをよく分かっており、結果どうなるかも予想できていたでしょう。

幹部達の賛同を得られた後、貴島は一言、一同に投げかけます。

 

「まだ諸君は疑うか。」

 

これは、私学校の設立時、多くの元薩摩藩士が半強制的に私学校徒となるなか、貴島がこれに同調せず、さらに開戦直前にも冷めた態度をとっていたことに起因します。

熊本で鎮台と戦いの火蓋が切られた際、貴島は西郷に従軍を乞うも断られました。これまでの貴島の行動に薩兵達は侮蔑の目を向けており、西郷は双方にとってよくないと考えたのでしょう。しかし、桐野利秋は貴島の戦才を惜しみ、一隊を率いて駆け付ければと提案します。貴島は、桐野の言う通りに高鍋で兵を募り、一隊を率いて植木で参戦し、薩軍に従軍することができました*1

この貴島の問いかけに対し、桐野が答えます。

 

「今日まで生死を共にしてきた貴君(おはん)を誰が疑うか。」

 

これで貴島の肚は決まったのでしょう。

この後、決死隊を結成し、増田宋太郎と共に米倉で明治政府軍を襲撃します。薩兵は、指揮者あるいは大将が率先して敵兵と闘う戦法を取ります。この時も同様に貴島は先鋒に立って明治政府軍と闘いますが、同じ薩兵から見ても異常で狂気と言える程、血みどろになりながら敵兵を斬っていきます。

ちなみにこの時、政府軍側には日露戦争で有名な伊藤祐麿もいました。

しかし、多勢に無勢で、最終的には10名程の敵兵に囲まれ、一斉に銃剣で突かれ、額にも突かれました。それでもなお額を突いた敵兵を斬り倒し、最終的には乱弾を浴びて斃れました。

ちょっと盛って記録しているのではとも思ったりしますが、覚悟を決めた者の底力なのでしょうか。

そして、増田をはじめ決死隊幹部級の者はみな斃れ、100余名のうち30余名が城山に帰還しました。

9月5日、宮崎にいる山懸有朋は、この日ようやく城山の確報を得ます。それまでにも情報は入ってはいましたが、政府軍内でその情報が錯綜しており、迅速な対応ができませんでした。

山懸は可愛岳の失敗を怖れ、攻撃せずに包囲を固めるよう現地に指示しました。

9月8日、ようやく城山に到着した山懸は、城山が一望できる多賀山に本営を設け、既に集結していた各旅団を部署しました。

なお、西郷軍本営があり、最も激戦が予想される岩崎谷口には、第4旅団の曾我祐準が任命されました。他の旅団の司令長官は薩長土出身であり、西郷に恩義があったり盟友であったりする者達であったため、西郷や薩兵と深い繋がりがない柳河藩出身の曾我率いる旅団が選ばれました。

9月10日前後*2、西郷軍内で、西郷を助命させるための軍議が開かれました。

軍議なので当然西郷も参加しており、事の趣旨を理解した後、一言、一同に発しました。

 

「開戦以来、何人死んだか・・・」

 

本当はこの後にも言葉が続くのでしょうが、口にするにも値しない愚劣なことだと思ったのでしょう。

たまたま桐野は遅れて軍議に参加し、軍議内の雰囲気を悟って一同を睨み回します。

桐野は西郷の晩節を汚したくないという想いが強く、西郷自身あるいは周囲の者が西郷助命の嘆願をしないか非常に恐れていたと言います*3

桐野はこの場で「卑怯の議を謀ったのは誰か。」と、人斬り半次郎時代を思わせる気迫で、一同を恫喝します。

この「卑怯」という言葉は、薩摩藩士のなかで最も忌み嫌われる言葉であり、言われた相手にとって最上級の侮辱でもあります。

明治6年の政変前の廟議で、西郷が大久保利通に「卑怯じゃごわはか」と言われ、激高します*4

「卑怯」という言葉を使うとどうなるか大久保はよく分かっていたにもかかわらず使ったのは、おそらくわざとなのでしょう。

結局、名乗り出たのが他藩人である元記者の山田亨次であったため、不問となりました。

こうして一度は西郷助命の策は流れましたが、後日、河野主一郎と辺見十郎太の手で実行されることとなりました。

先の軍議も西郷・桐野・別府を除く西郷軍幹部全員の事前同意を得て行われたことからも、辺見や河野、そして村田新八や池上四郎、山野田一輔も西郷を助けたかったのでしょう。

河野は、本当の目的を隠し、法廷で挙兵の意を説くため政府軍に直談判する許しを西郷に請います。西郷のこのときの反応や、後の絶文を見ると、河野の本当の目的には気付いていなかったことが窺えられます。

ちなみにこの時、西郷は、政府軍の砲弾から身を守るため、現在もその跡が残る洞窟で起居しています。

翌日、河野は西郷に永年の滋養を謝して訣れを告げます。

これは、政府軍内の安心できる人物に出会う前に殺される可能性が高く*5、また捕縛されたとしてもこれまでの事例*6から、間違いなく刑殺されると予想されることから、河野・西郷ともに河野の死は自明と考えられていたからでしょう。

同行を願い出た山野田も、前日の夜に友人と酒宴を開きます。ただし、山野田の場合は今生の別れという悲しいものではなく、明日はやってやるぞという決起の酒宴であったといいます。

河野・山野田は、無事、西郷の姻戚であり、子供の頃から西郷を兄のように慕う川村純義と対面することができ、西郷助命を嘆願しました。

川村も西郷を死なせたくない想いは強く、その分自身の行動を邪魔した開戦前の私学校徒の行いを問い詰めました。

そして、幾ら山懸と並ぶ参軍の川村であっても、もう自身の力ではどうすることもできないと苦渋の顔を浮かべながら諦観の意を伝えます。

しかし、西郷自身がここまで来れば何とかなるかもしれないと考え直し、自身の言葉に期待したのか、24日未明の総攻撃についても両人に伝えてしまいます。

敵軍に自軍の重要な作戦を、しかも軍トップが敵軍幹部に伝えるということは、かつての盟友・親族同士の戦いならではの出来事です。

川村は、河野を残し、山野田を使いとして西郷軍側に返します。

山野田は、後に西郷軍最後の突撃で玉砕しますが、河野はこの後生き永らえます。もし川村が逆の判断を下していたら、両人の人生は全く反対のものになっていたでしょう*7

山野田達の勝手な行いに桐野が激高したりもしましたが、結局、川村や山懸の手紙を無視し、政府軍の総攻撃に臨むこととなりました。

そして23日の夜、自然と西郷洞窟の前や各堡塁で最後の酒宴が始まりました。こうして城山に籠った西郷軍の兵士達が玉砕の肚を括るなか、政府軍に降伏を願い出ようと画策する者達もいました。

野村忍介・伊藤直二・別府九郎・佐藤三二・神宮司助左衛門です。

彼らは豊後戦線で戦っていた元奇兵隊の者達であり、桐野を憎み、桐野が西郷を貶めていると考えています。

別府晋介の兄である別府九郎は、桐野といとこ同士ですが、弟と違って桐野嫌いでした。

野村はこの時、有名な以下の言葉を吐きます。

 

「この戦いは桐野の戦いであった。」

 

彼らは密談した通り、翌日の総攻撃の際に投降し、生き永らえます。

そして24日、午前4時に政府軍の総攻撃が始まり、各堡塁で次々と西郷軍が陥落していきます。

そんななか、西郷洞窟前に幹部や各地で敗れてきた者達が集まり、総勢40余名が西郷の身支度が整った後、まだ前線を保っている岩崎谷口に向かって進軍します。

進軍してすぐに、小倉壮九郎が自刃しました。この人物は、日露戦争日本海海戦で有名な東郷平八郎の実兄です。ちなみに東郷はこの時イギリスに留学していました。後年、もし西南戦争時に日本にいたらどうしていましたか?という問いに対し、東郷は、間違いなく薩軍に従軍していたと答えたといいます。

彼がイギリスに留学しておらず、もし日本にいて薩軍に従軍し、斃れていたら、日露戦争はまた別のものになっていたでしょう。

島津応吉久能邸門前に差し掛かった際、西郷は二発の銃弾を受け、別府晋介に向かって西南戦争でも西郷語録のなかでももっとも有名な言葉を発します。

 

「晋どん、もうここでよか。」

 

「この辺でよか。」「ここらでよか。」「ここらでよかろう。」等、多少言い回しが違って表現されますが、兎に角、この言葉を受けて別府晋介は駕籠を降り、西郷を介錯します。

西郷の首はすぐに隠し、その後、残った者達が岩崎谷口の大堡塁に最後の突撃を行い、敵弾に斃れます。

こうして西南戦争終結し、結果的には薩軍総勢30,000名に対し、明治政府軍は総勢70,000名の兵力を有していました。城山籠城戦に至っては、薩軍372名に対し、政府軍70,000名が対峙するという異常な戦力差でした。にもかかわらず、戦死者数は両軍大差なく、いかに薩軍が政府軍を苦しめたかが分かると思います。

ちなみに有名な話ですが、西郷は象皮病を患っており、陰部が極端に大きく、政府軍は、首のない遺体の陰部を見て西郷だと分かったといいます。

西南戦争終結=西郷の死の報を聞いた大久保は、自宅の中を泣きながらぐるぐると回るという端から見れば異様な行動を取っていました。本戦争の勃発は西郷と大久保の決別に端を発していましたが、それは幼馴染である両人にとってまさに運命のいたずらだったと思わざるを得ません。

大久保が紀尾井坂の変で斃れた際、西南戦争第3旅団司令長官であった三浦梧楼が身辺を検めると、嘗て西郷が大久保に宛てた手紙があったといいます。

 

西南戦争は財政の圧迫等、日本にとって大損害を被ることとなりましたが、一方で、日本の軍事力を大幅に進展させた側面もあります。

まず、戦上手な島津兵(=薩兵)に対し、武士や農民といった出身に戦力的差がなかったことで、戦力に出身身分は関係ないことが証明され、今後、国民皆兵制が定着していきました。

これは、かなり早い段階で高杉晋作が考え、奇兵隊という一隊を設立したことでよく知られていますが、戊辰戦争でもそこまで重視されておらず、大半は士族を登用していました。

次に、設立して間もなく、それまでへっぴり腰で頼りなかった全国の鎮台が、本戦争を通して急激に精錬された点です。

また、西南戦争は戦争という名が付いていますが、正確には内乱であり、それを鎮撫するという名目では軍ではなく警察が対応することが筋であり、そういった意味で警察の存在感が圧倒的に大きくなりました。これは、警察を創設した川路利良にとっては非常に有益であったことでしょう。

さらに、薩軍や党薩諸隊がここまで西郷という一人の人物のために死を賭して戦えるその精神性が重視され、日本国民であれば誰もが崇拝する天皇陛下を今後大元帥とすることで、士気を高めようと画策されました*8

こうして、長きにわたって存在していた武士・士族が、本戦争の終焉とともに日本から消滅しました。

 

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はじめは第3弾までで終わらそうと思っていた本動画シリーズが、まさかの第11弾まで延びてしまいました。

 

次の記事では、本動画に用いた資料・参考文献や、使用させていただいたBGMについて掲載しようと考えています。

 

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*1:都城陥落後、北に向かった一因です(※詳しくはこちらを参照西南戦争(08・都城の戦いから宮崎への撤退まで) / Satsuma Rebellion - ニコニコ動画)。

*2:正確な日付は分かっていません。

*3:この心情のせいで、後に桐野が逃げようとする西郷を殺したという現在でいうフェイクニュースが流れたりしました

*4:詳しくはこちらを参照【修正版】西南戦争 (01・戦争勃発まで) / Satsuma Rebellion - ニコニコ動画

*5:会津藩兵に最初に発見されたら有無を言わずに殺されるでしょう。

*6:佐賀の乱を起こした首領・江藤新平など

*7:河野が生き永らえてくれたおかげで、高城七之丞の息子が晩年の河野に戦争時の薩軍内のリアルな様子を聞くことができ、河野追想談として現在も知られています。

*8:第2次世界大戦時にはそれが顕著に表れていますよね。

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