戊辰戦争動画(第7弾・飯山戦争から市川・船橋の戦い、五井戦争まで)の紹介
戊辰戦争動画(第7弾・飯山戦争から市川・船橋の戦い、五井戦争まで)をご紹介します。
衝鋒隊結成と飯山戦争
冒頭、飯山戦争から始まり、動画上ではこれまで触れていなかったため唐突と感じたかもしれませんので、ここで少し補足しておきます。
梁田の戦い*1で東山道軍に敗走した旧幕歩兵指図役頭取・古屋作左衛門(旧幕臣)率いる旧幕軍は、会津まで撤退します。
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慶応4年3月24日(1868年4月16日)、古屋作左衛門は会津藩主・松平容保に謁見し、衝鋒隊(総督・古屋作左衛門、頭並隊長・今井信郎*2、隊長・内田庄司)という隊名を拝命します。
そして衝鋒隊は会津を発ち、慶応4年4月19日(1868年5月11日)、高田藩(現・新潟県上越市)に進軍し、22日(14日)には飯山藩(現・長野県飯山市)に到達しました。
実はこれより約1ヶ月前の3月16日(4月8日)に、北陸道軍(総督・高倉永祜、副総督・四条隆平、参謀・黒田清隆、山縣狂介)が高田藩に進軍後、越後国に属する11藩に恭順を命じ、諸藩はこれに従い勤王を誓いました。
しかし、北陸道軍は東征大総督府から江戸招集の命を受け、高田藩と新発田藩(現・新潟県新発田市)に会津藩の抑えとなるよう命じつつ、北陸からいなくなってしまいました。
新政府軍が手薄となった北陸では、会津藩が勢力拡大を進め、次第に恭順に消極的となっていった越後諸藩でした。
そのような状況で衝鋒隊が進軍してきたため、城下を戦火にさらされたくない飯山藩は、自藩が佐幕派であると偽り、衝鋒隊を受け入れました。
衝鋒隊もこれを信じ、一部は新井宿(現・新潟県妙高市)まで撤退しました。
一方で、早期より藩論を倒幕一色に統一し、信濃全藩の触れ頭役を命じられていた松代藩(現・長野県長野市)や尾張藩(現・愛知県名古屋市)、須坂藩(現・長野県須坂市)が、衝鋒隊討伐に向けて飯山藩に進軍していました。
このとき、衝鋒隊に味方する行動を取っていたため、飯山藩も討伐対象となっていました。
以上の経緯により、動画本編の飯山戦争が勃発し、城下を戦火にさらされたくない想いで奔走した飯山藩でしたが、結局、自藩の城下が戦場となってしまいました。
それだけでなく、新政府側から賊軍として討伐対象に加えられてしまうというまさに泣きっ面に蜂状態です。
追い詰められた飯山藩は、腹を括り、松代藩等に自藩が新政府側であることを何とか伝え、それを証明するために、衝鋒隊に討って出ました。
そのような飯山藩の心情を知らない衝鋒軍側からしたら、「裏切られた」と思うのも無理ありません。
飯山戦争に敗戦した衝鋒隊は、柏崎に撤退し、後に勃発する鯨波戦争に参戦します。
市川・船橋の戦いと五井戦争
先ほどの飯山戦争もそうですが、市川・船橋の戦いや五井戦争は、戊辰戦争の中でもマイナーなので、地元の人でも知っている人は少ないのではないでしょうか。
市川・船橋の戦いによって、市川宿・船橋宿は数多くの家屋が焼失しました。
そのため、特使・柳原前光(公卿)は地元民の不満を抑えるため、市川宿に金500両、船橋宿に金3,000両を下賜しました。
このあたりについて、上記以外に特に補足する内容はないので、動画本編をご覧ください。
ちなみに、市川・船橋の戦いが勃発する直前(新政府軍と撒兵隊が交渉中)の閏4月1日(5月22日)、駐日英国公使・ハリー・パークスが大坂城でビクトリア女王の信任状を明治天皇に提出しました。
これは、外国による最初の明治政府の正式承認を意味します。
また、閏4月6日(5月27日)午前11時に、勤仕並寄合・小栗忠順(上野介)が取り調べもされずに水沼河原(現・群馬県高崎市)で家臣と共に斬首されました。
小栗忠順は、箱根の挟撃策を徳川慶喜に提案し、嘘か真実か分かりませんが後に大村益二郎に「もし、小栗豊後守の献策を用いて、実地にやったれば、我々は生命がなかったであろう。」と言わしめたほどの権謀家で有名です。
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